<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>特集　&#124;　片山恭一オフィシャルサイト　片山恭一書店</title>
	<atom:link href="http://www.kkatayama.net/feature/?feed=rss2" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://www.kkatayama.net/feature</link>
	<description></description>
	<lastBuildDate>Sun, 13 Oct 2013 23:30:11 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<generator>http://wordpress.org/?v=3.2</generator>
		<item>
		<title>成長</title>
		<link>http://www.kkatayama.net/feature/?p=119</link>
		<comments>http://www.kkatayama.net/feature/?p=119#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 13 Oct 2013 23:30:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>katayama books</dc:creator>
				<category><![CDATA[特集]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kkatayama.net/feature/?p=119</guid>
		<description><![CDATA[成長戦略などという言葉を得意げに口にする人たちを見ていると、彼らの頭のなかは明治維新のころから変わっていないんじゃないかと思う。経済成長によって、人が幸せになったり豊かになったりすると、本気で思っているのだろうか。だとし &#8230; <a href="http://www.kkatayama.net/feature/?p=119">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[成長戦略などという言葉を得意げに口にする人たちを見ていると、彼らの頭のなかは明治維新のころから変わっていないんじゃないかと思う。経済成長によって、人が幸せになったり豊かになったりすると、本気で思っているのだろうか。だとしたら、ますます正気ではない。<br />
<br />
日本中の自治体がゴミ処理に苦慮していることを見ても、ぼくたちがモノを作り過ぎ、使い過ぎていることは明らかだ。この上、GDPを増やしてどうしようというのか。総生産量が足りないのではなく、配分の仕方が間違っているのである。グローバルな経済格差の問題まで考えるなら、ぼくたちがめざすべきは、豊かに、幸せに貧しくなっていくことだろう。<br />
<br />
経済成長とは、人がお金に依存して生きるようになることでもある。すでにぼくたちは、過度にお金に依存して生きている。それは経済や政治の変動が、将来の不安に直結することを意味している。そうした不安を麻痺させるために、「力強い経済成長」などという、誰がどう考えても不可能な目標が設定される。その一方で、原発を海外へ輸出し、将来、自分たちが被る脅威や危機を好んでつくり出そうとしている。<br />
<br />
国や政府に何かを期待する時代は終わっている。彼らにできるのは、要するにお金を使うことだ。しかしお金でどうにもならないから、こういうことになっているのである。日銀にできることは限られている。金融経済の拡大によって、もはや中央銀行といえども貨幣をコントロールすることはできない。また物価下落の背景には、世界経済の供給構造の変化があり、これも一国の政府や中央銀行で解決できる問題ではない。<br />
<br />
政府も日銀も無力である。だが、ぼくたちは無力ではない。ただ無力感にとらわれているだけだ。無力感を乗り越えるためには発想の転換が必要だ。まず「成長」の観念を変えよう。成長とは何か？<br />
よりシンプルな生き方をめざすこと、暮しやすいコミュニティを築くこと……いずれにしても生産を拡大し、消費を増やすことが成長ではない。そこから考えはじめよう。]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.kkatayama.net/feature/?feed=rss2&#038;p=119</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>終戦</title>
		<link>http://www.kkatayama.net/feature/?p=116</link>
		<comments>http://www.kkatayama.net/feature/?p=116#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 06 Oct 2013 23:30:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>katayama books</dc:creator>
				<category><![CDATA[特集]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kkatayama.net/feature/?p=116</guid>
		<description><![CDATA[すべては、この言葉からはじまったのではないか。「敗戦」を「終戦」とすりかえることによって、さまざまな面で、戦後の日本の社会は損なわれてきたのではないだろうか。 敗北を認められないから、隣国へきちんとした謝罪ができない。過 &#8230; <a href="http://www.kkatayama.net/feature/?p=116">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[すべては、この言葉からはじまったのではないか。「敗戦」を「終戦」とすりかえることによって、さまざまな面で、戦後の日本の社会は損なわれてきたのではないだろうか。<br />
<br />
敗北を認められないから、隣国へきちんとした謝罪ができない。過ちを犯したのなら、謝罪こそ新しい一歩であるはずだが、それをやらなかったために、過ちは正されることなく、曖昧なまま国民感情のなかに埋め込まれることになった。<br />
<br />
負けを負けと認められないかぎり、戦力の不保持と交戦権の否認という条項がもつ、人類史的な意味も意義もわかるまい。だから憲法九条の改正を訴える首相が、景気回復への期待感から支持されることにもなる。日本人の関心が景気回復にしかないとすれば、早晩、日本という国は滅びると思う。<br />
<br />
あらゆる敗北には理由や原因があり、多くの場合は責任を伴う。敗れたことを曖昧にして、誰も責任をとらない社会。敗れた理由や原因をうやむやにしたまま、いつのまにか元に戻ってしまう社会。そして敗れたことによって生じた生命、財産などの喪失は、救済されることなく放置される。幾度となく繰り返されてきたことが、いまもなお繰り返されている。<br />
<br />
沖縄、水俣、福島……日本の社会は、救済されるべき同胞を、これまで一度として救済してこなかった。彼らの苦難を取り込むことができなかった。そうやって日本人は、自分たちを見捨ててきたのではないだろうか。今度は誰の番かわからない。同胞の受難に手を差し伸べないことで、ぼくたちは自分たち自身を見捨てつづけていると言える。<br />
<br />
本来、敗北は力であるはずだ。自然との関係で、人間は負けつづけてきた。老いや死に、人間は勝つことができない。その自覚が、人間を今日まで歩ませてきたとも言える。震災と原発事故があり、いまこそぼくたちの敗北力が問われている。富士山もいいけれど、日本の社会が生み出した負の世界遺産に、もっと目を向ける必要があるのではないだろうか。]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.kkatayama.net/feature/?feed=rss2&#038;p=116</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>技術</title>
		<link>http://www.kkatayama.net/feature/?p=111</link>
		<comments>http://www.kkatayama.net/feature/?p=111#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 01 Oct 2013 01:31:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>katayama books</dc:creator>
				<category><![CDATA[特集]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kkatayama.net/feature/?p=111</guid>
		<description><![CDATA[技術とは人間に制御しえない何か、ではないだろうか。技術にたいして、人間はけっして超越的に振舞うことができない。人間が技術をコントロールしているというのは、見せかけだけのことに過ぎない。コントロールすることは、すなわちコン &#8230; <a href="http://www.kkatayama.net/feature/?p=111">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[技術とは人間に制御しえない何か、ではないだろうか。技術にたいして、人間はけっして超越的に振舞うことができない。人間が技術をコントロールしているというのは、見せかけだけのことに過ぎない。コントロールすることは、すなわちコントロールされることである。そうした相互的な関係こそが、技術の本質のように思える。
<br /><br />
たとえば水力発電や火力発電にかわって、原子力発電という新たな技術が登場する。それは技術や産業の歴史として見れば、進歩や発展ということになるのだろうが、同時に、原発を厳重な管理のもとに運転し、一歩間違えば取り返しのつかない放射能災害を引き起こすというような、よりストレスフルな技術との関係にとらわれることでもある。仮に、核エネルギーをめぐる技術体系を完成させて、人間に害を与えないようにマネージメントできるようになったとしても、そこにより大きな、より深刻な技術的弊害や破壊性が待ち受けていることは、技術の本質からして間違いないだろう。
<br /><br />
日本に二つの原子力爆弾の投下されたときが、きっと人間と技術の関係の折り返し点だったのだろう。今回の原子力発電所の事故で、そのことははっきりしたように思う。逃げる準備をして原発を動かすこと。先祖の墓参りもできなくなる可能性の下に生きること。被災する不安のなかで子どもを育てること。一つの技術に、人間としての自由も主体性も奪われること。それを是とすることの愚。
<br /><br />
もちろん核エネルギーだけの問題ではない。遺伝子診断も再生医療も、けっして手放しで歓迎されるものではないだろう。技術に依存すればするほど、人間は技術のなかで人間性を喪失していく。人間とは技術なのか。技術とともにはじまり、技術とともに終わるものなのか。
<br /><br />
たとえば「魂」といった言葉を、この世界にいかに根づかせるかが、これからは非常に重要になってくると思う。それは人間と自然、生者と死者とが交流するような世界を構想しうるかどうか、ということでもあるだろう。
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.kkatayama.net/feature/?feed=rss2&#038;p=111</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>真理</title>
		<link>http://www.kkatayama.net/feature/?p=107</link>
		<comments>http://www.kkatayama.net/feature/?p=107#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 22 Jul 2013 04:14:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>katayama books</dc:creator>
				<category><![CDATA[特集]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kkatayama.net/feature/?p=107</guid>
		<description><![CDATA[現在、癌のスタンダードな治療法とされている手術、抗癌剤、放射線は、いずれも見方を変えれば、身体に加えられる熾烈な暴力である。生きている人間の腹を切り開き、臓器の一部を切り取る。なんて残酷な！　こうした血なまぐさい暴力が、 &#8230; <a href="http://www.kkatayama.net/feature/?p=107">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[現在、癌のスタンダードな治療法とされている手術、抗癌剤、放射線は、いずれも見方を変えれば、身体に加えられる熾烈な暴力である。生きている人間の腹を切り開き、臓器の一部を切り取る。なんて残酷な！　こうした血なまぐさい暴力が、刑事罰に問われないのはなぜなのか。<br />
<br />
それどころかぼくたちは、医学的な暴力の前に、進んで自らの大切な身体を差し出す。さらに切り刻まれた肉体をベッドに横たえ、自分を切り刻んだ者にたいして、涙を流さんばかりに感謝したりもするのだ。おかしくないだろうか？　おかしいのは、こんなことを考えるぼくの方だろうか。<br />
<br />
たとえば癌検診で、医者から「癌です。手術をしましょう」と言われただけで、本人は痛くも苦しくもないのに身体にメスを入れる。当然だと言う人も多いかもしれないが、ぼくはそこまで他人を信用する気になれない。あるいは医学的な「真理」を信用する気になれない。なぜ、これほど真理に重きを置くのだろう。自分の身体的な実感よりも、医学的な見立てを優先することには、それほど確かな根拠があるのだろうか。<br />
<br />
真理は歴史的なものである。言い換えれば、どんな真理にも賞味期限がある。人間の歴史を振り返ってみよう。過去はさながら死せる真理の墓場といった様相を呈していないだろうか。このことからすれば、現在、医学的に正しいと考えられていることが、いずれ死せる真理となることはほぼ確実である。癌治療のあり方にしても、百年後には、おそらく人々の眉をひそめさせるものになっているだろう。<br />
<br />
しかしぼくを含めて、誰も真理の外に身を置くことはできない。それぞれの時代に、同時代の者たちを閉じ込める知識や認識の枠組みが存在し、その枠組みが、ぼくたち一人一人の自己を規定しているからだ。本当は百年後の人間の意見を聞けるといいのだが、そういうわけにもいかない。だから批判や思考が必要になってくる。思考とは、真理から距離を置く作業であり、現在から自由になることであり、百年後の人間や宇宙人の目で、自分たちを眺めようとすることである。]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.kkatayama.net/feature/?feed=rss2&#038;p=107</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>憲法　/　愛媛新聞PR誌「アクリート」寄稿　言葉にかまけて</title>
		<link>http://www.kkatayama.net/feature/?p=105</link>
		<comments>http://www.kkatayama.net/feature/?p=105#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 14 Jun 2013 01:21:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>katayama books</dc:creator>
				<category><![CDATA[言葉にかまけて]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kkatayama.net/feature/?p=105</guid>
		<description><![CDATA[憲法改正の論議がかしましい。日本国憲法はアメリカによる押しつけだから、これを改正して自分たちの憲法をもたなくてはならない。それを言うなら、沖縄の米軍基地や戦後日本の原子力行政こそ、アメリカの押しつけではないだろうか。しか &#8230; <a href="http://www.kkatayama.net/feature/?p=105">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[憲法改正の論議がかしましい。日本国憲法はアメリカによる押しつけだから、これを改正して自分たちの憲法をもたなくてはならない。それを言うなら、沖縄の米軍基地や戦後日本の原子力行政こそ、アメリカの押しつけではないだろうか。しかも日本国憲法のせいで日本人が迷惑を被ったという話は聞かないが、基地や原発は現に多くの日本人を苦しめている。まずこれらを、なんとかすべきだろう。<br />

憲法改正を口にするのが政治家であるのも気になる。もともと憲法とは、政治家や軍人が勝手なことをしないように、国民が彼らにたいして突きつけたものである。その趣旨は、人権の尊重と権力の制限である。基地問題でも原発事故でも、多くの日本国民の人権はいちじるしく侵害されている。政治家がやるべきは、憲法改正ではなく、現行の憲法に定められたことを着実に実行に移すことだ。<br />

改憲派の人たちは、とりあえず憲法改正の発議を総議員の「三分の二」から「過半数」にすることをめざしているようだが、憲法改正の要件が厳格であるのは、権力の濫用によって憲法が変えられ、人権が保障されなくなる事態を防ぐためである。このことの意味を、ぼくたち重く受け止めなければならない。つまり安易に九六条を改正させてはならないのだ。<br />

では憲法改正を言っている人たちは、何をどう変えたいのか。自民党の改正草案を読むかぎり、①国民の権利を制限し、②日本を「戦争をする国」にすることだと思う。この草案の通りに憲法が改正されれば、近い将来、日本は「自衛」という戦争に巻き込まれることになるだろう。そして「国防軍」は、日米安全保障条約に則り、「国際的協調」という名のもとに、アメリカの意向で世界各地へ派兵されることになるだろう。<br />

国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を明確に宣言した日本国憲法の前文は、それらが「人類普遍の原理」であると説いている。憲法改正によっても、前文に盛られた基本原理を否定することはできない。]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.kkatayama.net/feature/?feed=rss2&#038;p=105</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>平和　/　愛媛新聞PR誌「アクリート」寄稿　言葉にかまけて</title>
		<link>http://www.kkatayama.net/feature/?p=102</link>
		<comments>http://www.kkatayama.net/feature/?p=102#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 06 May 2013 23:30:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>katayama books</dc:creator>
				<category><![CDATA[言葉にかまけて]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kkatayama.net/feature/?p=102</guid>
		<description><![CDATA[現在の日本は、戦争がないという意味では平和かもしれない。でも平和だから安全であるとは、かならずしも言えない気がする。目下、身近なところでぼくたちの安全を脅かしているのは、まず放射能であり、もう少し視野を広げると、ウイルス &#8230; <a href="http://www.kkatayama.net/feature/?p=102">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[現在の日本は、戦争がないという意味では平和かもしれない。でも平和だから安全であるとは、かならずしも言えない気がする。目下、身近なところでぼくたちの安全を脅かしているのは、まず放射能であり、もう少し視野を広げると、ウイルスやテロということになるだろう。<br />
これらはどれも目に見えない。そしていつでも、どこでも生み出される可能性がある。福島の事故でいちばんショックだったのは、たとえ百キロ、二百キロ離れたところでもホットスポットになりうるという事実だ。原発から半径二百キロといえば、ほとんど日本中がカバーされてしまうだろう。つまりぼくたちは誰もが、潜在的に避難民ということになる。<br />
テロに国境はない。兵士と民間人、軍事活動と経済活動のあいだの区別もない。アルジェリアの事件を見ても、それは明らかだ。人道的支援や援助活動をやっている人たちも、ただのツーリストも、あらゆる人間が標的になる。テロの暴力は、生きている人間の生命そのものに向けられていると考えなければならない。<br />
こうしたものが、ぼくたちの直面している脅威や危機である。すると領土や国家を基準にした「平和」という考え方は、かなり修正されなければならないだろう。あまり「国防」の姿勢を強く打ち出すことは、かえって日本人の生命を危険に曝すことにもなりかねない。<br />
逆に、われわれは憲法九条を擁して平和をめざす国民である、と世界中にアピールした方が、テロなどに遭遇する危険性は小さくなるかもしれない。少なくとも、人々の反感を買うことはないだろう。むしろ軍備をもたない小さな国を中心に多くの支持を得ることで、日本人が海外で様々な活動をする際に、安全保障の役割を果たすかもしれない。<br />
平和の意味は相対化している。国家や軍備だけでは、ぼくたちの生命は守れない。一人一人の生命をいかに守るかということを、ぼくたちは当事者の立場で考えていかなければならない。そこから新しい「平和」が定義されてくると思う。]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.kkatayama.net/feature/?feed=rss2&#038;p=102</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>愛　/　愛媛新聞PR誌「アクリート」寄稿　言葉にかまけて</title>
		<link>http://www.kkatayama.net/feature/?p=97</link>
		<comments>http://www.kkatayama.net/feature/?p=97#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 26 Apr 2013 01:11:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>katayama books</dc:creator>
				<category><![CDATA[言葉にかまけて]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kkatayama.net/feature/?p=97</guid>
		<description><![CDATA[愛について、顰蹙を買うまでに語り倒したいと思っている。いい歳をして「愛」などと言うと、あいつおかしいんじゃないかと思われるかもしれないが、たしかに。でも皆さん、ちょっとまわりを見まわしていただきたい。世界中の至るところで &#8230; <a href="http://www.kkatayama.net/feature/?p=97">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[愛について、顰蹙を買うまでに語り倒したいと思っている。いい歳をして「愛」などと言うと、あいつおかしいんじゃないかと思われるかもしれないが、たしかに。でも皆さん、ちょっとまわりを見まわしていただきたい。世界中の至るところで武力紛争、内戦、テロ、威嚇、制裁……それが常態になっている。いったい誰がなんのために戦っているのか、ぼくたちからするとよくわからないことも多い。ただ憎しみと暴力の連鎖だけが地球を覆っているように見える。<br />
国内に目をやっても、富める者と貧しい者が、儲けた人と損をした人が、正規雇用者と非正規雇用者が、官僚と国民が、生産者と消費者が、大人と子どもが、夫と妻が、先生と生徒が、医者と患者が、不信感を抱き合い、ときに反目し、お互いを拒絶し、嫌悪し、暴力のような否定的力に訴えることが多くなっている。そうした風潮のなかで、安全保障のために憲法を改正して国防軍を強化するとか言って、やはり軍事力という否定的力を恃みにする人たちが幅を利かせている。<br />
だから愛。顰蹙を買うまでに愛。強い肯定のメッセージを込めて、髪の毛が後退しつつある五十四の男には、いかにも不似合いな言葉を、あえて使ってみたいと思うのだ。<br />
『聖書』のなかでイエスは、様々な病人を癒す。そのときイエスの発する言葉は、「あなたの罪は赦される」というものだ。これは無条件の承認を意味している。あなたがどのような者であろうと、わたしはあなたの存在を承認する。ぼくたちはイエスではないから、もっとプライベートな場面、ロマンチックな文脈で、一人の相手に無条件の承認を与える。家族や恋人といった限定的な関係のなかで、お互いを承認し合う。それが愛という肯定する力だ。水をやり、光を与えて、この力を大切に育てていかなくてはならない。<br />
いまは対話が成り立たなくても、たとえ憎しみ合ったり殺し合ったりしていても、暴力と憎悪に満ちた世界を生きているのは、愛する力を授かった一人一人の人間であることを、ぼくたちは忘れないようにしたい。]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.kkatayama.net/feature/?feed=rss2&#038;p=97</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>同郷の三人　/　愛媛新聞PR誌「アクリート」寄稿　ほーなんよ、伊予弁</title>
		<link>http://www.kkatayama.net/feature/?p=89</link>
		<comments>http://www.kkatayama.net/feature/?p=89#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 30 Jan 2012 06:42:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>katayama books</dc:creator>
				<category><![CDATA[ほーなんよ、伊予弁]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kkatayama.net/feature/?p=89</guid>
		<description><![CDATA[郷里の友人が、旅行の途中に立ち寄ってくれる。去年から単身赴任でこちらに来ている友だちも呼んで、一夜、大いに盛り上がる。おしゃれなイタリアン・レストランに飛び交うローカルな言葉。ワイン・リストを広げながら、「いやあ、最近は &#8230; <a href="http://www.kkatayama.net/feature/?p=89">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[郷里の友人が、旅行の途中に立ち寄ってくれる。去年から単身赴任でこちらに来ている友だちも呼んで、一夜、大いに盛り上がる。おしゃれなイタリアン・レストランに飛び交うローカルな言葉。ワイン・リストを広げながら、「いやあ、最近はあちこちユル～なってしもうて、いけんてや」などと、枯れた話題に花を咲かせているおれたちって、なに？<br />
三人とも高校を卒業して、しばらくのあいだ故郷を離れている。ぼくなどは福岡に住み着いてしまって、もう三十年以上になる。だから正しい郷里の言葉は、もう喋れない。かといって博多弁に染まっているわけでもなく、標準語が伊予・博多方面に訛ったような、由緒正しくない言葉を使っている。あとの二人にしても、どこか微妙に大阪弁や広島弁が混じっていて、正調なものとは言えない。<br />
それにしても中学・高校時代の友だちとは、どうしてこうも微に入り細をうがち、具体的に打ち溶け合ってしまうのか。あの日あのとき、クラスメイトの誰がどうしたといった類の話が、いい加減ゆるくなっているはずの脳みそのあいだから、汲めども尽きぬ泉のように湧き出してきて、三十年以上も昔の出来事だというのに、それがまたいちいちおかしいのだ。まるで何かのウィルスにでも感染してしまったかのように、他人が聞いてもまったく意味不明な哄笑のうちに、ぼくたちはワインのボトルを空けていった。<br />
ふと不思議なことに気がついた。三人の喋っている言葉が、紛れもない郷里の言葉になっている。いつのまにか純化され、土着性を取り戻している。あたかも一つの場所を目指すようにして、柔らかで滋味豊かな響きのもとへ回帰している。言葉とともに、ぼくたちもまた、あの日あのときへ戻っていくようだった。]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.kkatayama.net/feature/?feed=rss2&#038;p=89</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>中洲ぜんざい　/　福岡ウォーカー寄稿　これは美味なり</title>
		<link>http://www.kkatayama.net/feature/?p=85</link>
		<comments>http://www.kkatayama.net/feature/?p=85#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 16 Jan 2012 03:03:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>katayama books</dc:creator>
				<category><![CDATA[これは美味なり]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kkatayama.net/feature/?p=85</guid>
		<description><![CDATA[小学生のころ、父がカキ氷機を買ってきた。現在は電動のものも出ているようだが、当時のものは手動のハンドルをぐるぐるまわして氷を掻くタイプ。手回しのコーヒー・ミルみたいな感じ。 円盤状の氷を作るための、専用のアイストレーが付 &#8230; <a href="http://www.kkatayama.net/feature/?p=85">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[小学生のころ、父がカキ氷機を買ってきた。現在は電動のものも出ているようだが、当時のものは手動のハンドルをぐるぐるまわして氷を掻くタイプ。手回しのコーヒー・ミルみたいな感じ。<br />
円盤状の氷を作るための、専用のアイストレーが付いていた。これでいつでも好きなときに、カキ氷が食べられるってわけだ。<br /><br />

ぼくと妹は大喜びで、さっそく作ってみることにした。<br />
冷蔵庫のなかで氷ができるまでの時間が待ち遠しかったこと。ようやく固まった氷をセットして、交替でハンドルをまわす。氷を掻くシャリシャリいう音がなんとも涼しげだ。<br />
ガラスの器に、見る見るフレーク状の氷の山ができていく。<br />
おお、お店で食べるカキ氷と同じだ。<br />
感動した。毒々しい色のイチゴのシロップをかけて、それから数日、ぼくたちは心行くまでカキ氷を食べたのだった。<br /><br />

カキ氷とは、その名の通り氷を掻いただけのもの。氷の原料は、言うまでもなく水である。材料費は限りなくタダに近い。ところがお店で食べると、五百円くらいは取られてしまう。馬鹿ばかしい、と子どもをもつ親の多くは考える。そして魔が差すようにして、家庭用のカキ氷機を買ってしまうのである。<br />
しかしカキ氷を常食としている人が、いったいどれくらいいるだろう。あなたはひと夏に、何度くらいカキ氷を食べますか？<br />
子どもとて同じ。すぐに飽きてしまう。でも「馬鹿ばかしい」と考える親は跡を絶たないので、カキ氷機は不滅だ。めでたし、めでたし。<br /><br />

中洲ぜんざいというのは、お店の名前である。櫛田神社の裏手にある、知る人ぞ知る小さなお店。「ぜんざい」というくらいだから、メインはぜんざいとおしるこなのだが、いくら甘党とはいえ、夏の盛りにぜんざいはちょっと辛い。<br />
それで夏の限定メニューとして、カキ氷が登場したのではないかと推察される。<br />
ここのカキ氷のファンは、ぼくのまわりにも意外と多い。味はもちろんだが、表によしずを渡した店のたたずまい、昔ながらの雰囲気に惹かれる部分も大きいと見た。おすすめは「宇治ぜんざい」かな。「金時」と言わず、あえて「ぜんざい」と言い張るところが、いかにもである。<br />
カキ氷のなかに、小豆と白玉が入っている。暑い昼下がり、川端通り方面へお越しの折りに、食されてみてはいかが。<br />
日曜、祝日はお休みなので、ご注意を。]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.kkatayama.net/feature/?feed=rss2&#038;p=85</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>メディアに望むこと　/　愛媛新聞PR誌「アクリート」寄稿　日々是ほぼ好日</title>
		<link>http://www.kkatayama.net/feature/?p=82</link>
		<comments>http://www.kkatayama.net/feature/?p=82#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 10 Jan 2012 01:44:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>katayama books</dc:creator>
				<category><![CDATA[日々是ほぼ好日]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kkatayama.net/feature/?p=82</guid>
		<description><![CDATA[ぼくが住んでいる福岡県は、普段から暴力団の抗争が絶えないところだ。先ごろも、拳銃をぶっ放したり手榴弾を爆破させたり。死人も出ている。震災から一ヵ月も経っていないというのに。 暴力団なんて大嫌いだけれど、このときばかりは「 &#8230; <a href="http://www.kkatayama.net/feature/?p=82">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[ぼくが住んでいる福岡県は、普段から暴力団の抗争が絶えないところだ。先ごろも、拳銃をぶっ放したり手榴弾を爆破させたり。死人も出ている。震災から一ヵ月も経っていないというのに。<br />
暴力団なんて大嫌いだけれど、このときばかりは「あいかわらずだなあ」と思い、いやな感じはしなかった。<br />
そのくらい社会をあげての「自粛ムード」に、うんざりしていたのだ。<br />
同じころ、被災地の首長が「復興のさまたげになるので、過度な自粛は控えるように音頭をとってくれ」と首相に申し入れているのをニュースで見た。やっぱり日本人って、どこかへんだ。<br />
各メディアは、人々の善意を発揚させて画一的なムードを作り出すようなことを、絶対にやるべきではない。<br />
今回の原発事故にかんしては、残念ながら新聞もテレビも、ほとんどが官制の情報を流すだけだった。とくに最初の一週間くらいは、常に海外メディアに先行されていた観がある。<br />
原子力安全・保安院は東電のスポークスマンみたいだし、テレビに出てくる学者は、パネルや模型を使って同じ説明を繰り返すばかり。出るべき情報の出ないことが、国民に不安と不信を植えつけた。そのため「健康には直ちに影響はない」と言われても、にわかに信じる気がしなくなった。「想定外」という弁明も、逃げ口上にしか聞こえなくなった。<br />
メディアの第一義の使命は情報を提供することだ。芸能人の情報などいらんから、放射能にかんする正確な情報を出してほしい。ぼく自身は、心情的にテレビとは絶縁しているが、新聞にはまだいくらか未練があり期待もしている。たとえば原発にかんしては、役人や御用学者以外の専門家の声をもっと聞きたい。励ましの声や支援活動の報道などは、あとまわしでいいと思う。不安と不信が渦巻いているときほど、多角的な情報が重要になってくる。<br />
それらをもとに、一人一人が何をするかを考えればいい。]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.kkatayama.net/feature/?feed=rss2&#038;p=82</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
	</channel>
</rss>
