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ぼくたちは何を守ろうとしているのか~ウイルス・テロ・放射能


 今日はウイルスとテロと放射能についてお話しさせていただきます。現在、ぼくたちが生きている世界の現状、その世界が孕んでいる問題を、これら三つのものに象徴させてみたいと思います。三つは、あたかも一つの家族のような印象を与えます。幾つも共通した性格を挙げることができますが、重要な点は以下の二つだと思います。(1)いずれも人間がつくり出したもの、とりわけヨーロッパの近代が科学技術とともに生み出したものであること。(2)どこででも生み出される可能性がある。つまり潜在的に遍在していること。
 第一の点について見てみます。ヒトとウイルスとの付き合いは長く、人間の歴史はウイルスとの共存の歴史であったと言ってもいいくらいです。ヒトとウイルスは、本来は共存可能なはずです。現在、ウイルスが脅威になっていることは、グローバリゼーションと密接な関係があると思います。人や資本や技術や情報が地球規模で流通し、政治的にも経済的にも、また生活のレベルでも、一つのグローバルな世界が生まれているわけですが、それによって免疫のない者が未知のウイルスと遭遇するとか、新種ウイルスにたいするワクチンが開発される前に、感染が一気に拡大してしまうとか、いわゆるパンデミックが懸念される条件が生まれている。生産と消費の加速、交通と流通の高速化、地球の隅々への開発とツーリズムの展開など、人間のつくり出すスピードによって、共存可能なはずのウイルスが脅威になっている。人間のつくり出すスピードに、人間自らが対処できなくなっている。それが今日のウイルス的な危機の本質であると言えます。
 テロについても同じことが言えるでしょう。もちろんテロにもさまざまなタイプのものがあり、一概には言えませんが、現在、アラブ諸国や北アフリカなどで多発しているテロの背景には、欧米が主導するかたちで進展しているグローバリゼーションがあります。グローバリゼーションの政治・経済的な側面、つまり民主主義と資本主義によってグローバルな秩序をつくり出そうとする動きが、多くの人たちにとっては、伝統的な文化や社会や産業の破壊であったり、搾取や抑圧であったりしている。それにたいする抵抗や否認として、テロリズムが生まれてきている。だから支持する人たちも多いわけでしょう。テロを通して明らかになってきたことは、自由や平等といった、西欧的な社会では普遍であり妥当であるとみなされているものが、かならずしは普遍でも妥当でもないということです。少なくとも地球上の人間すべてが共有できるものではない。むしろ一部の人たちに利益をもたらし、他の多くの者に不公平をもたらす基準として機能している面がある。そうしたことに目を向けさせる、批判的な文脈をテロリズムはもっていると思います。
 放射能については言うまでもありません。それはまさに人為的に生み出される脅威です。より正確に言えば、人間の技術によってつくり出されるものです。ハイデガーは近代技術の本質を「開蔵」であると定義しています。原語は「エントベルゲン(Entbergen)」で、蔵されているものを開く、発掘するというような意味です。昔の人たちは風車や水車をまわしてエネルギーを取り出していたわけですが、これらは吹いている風や流れている水を、そのまま利用しているだけです。しかし石炭や石油からエネルギーを取り出すことは、大地を掘り起こし、自然のなかに閉じ込められているものを、無理やり引き渡せと要求することです。その究極的なあり方が、核エネルギーであると言えます。ウラン鉱石は、まさに大地から採掘され、鉱石のなかにごく微量に含まれているウランから、エネルギーが取り立てられる。その過程で放射性物質が生まれるわけです。
 以上が第一のポイント、現在の脅威や危機は、その多くの部分が人間によってつくり出されたものである、ということです。つぎに第二の点について見てみます。これらの脅威や危機は、どこででも生み出される可能性がある、すなわち潜在的に遍在しているという点です。
 新種のウイルスがどこで生まれるかわかりませんし、どういう感染ルートをたどって拡大するかもわからない。あらゆる可能性が考えられるわけです。したがって完全な予防は不可能ということになります。テロの場合も同じです。いつ、どこで巻き込まれるかわならない。しかも軍事活動をしている兵士だけが危険に曝されているわけではありません。アルジェリアの事件などを見ても、兵士と民間人、軍事活動と経済活動のあいだの区別はない。人道的支援や援助活動をやっている人たちも、ただのツーリストも、あらゆる人間が標的になる。テロリズムの暴力は、生きている人間の生命そのものに向けられていると言えます。ぼくたちが生きているかぎり、テロリズムの危険はつきまとうと考えた方がいい。誰もが潜在的に人質になっている。それが現在のテロリズムの本質だと思います。
 まったく同じことが、放射能についても言えます。福島の事故によって明らかになったことは、たとえ百キロ、二百キロ離れていようと、ホットスポットになったところは、半永久的に人が住めないほど汚染されてしまうということです。ぼくたちはウイルスにたいして潜在的に感染者であるように、またテロにたいして潜在的に人質であるように、放射能にたいしては潜在的に避難民であると言えます。家族で一緒にご飯を食べたり、子どもたちが元気に校庭を駆けまわったりしているのは、ただの偶然に過ぎない。要するに運が良かったというだけのことだ。そういう自覚や認識を共有していくことが大切だと思います。
 このように見てくると、ぼくたちが守らなければならないのは、何よりも自分たちの生命であることがわかります。もちろん経済を立て直し、暮しや生活を守ることも大切です。景気や電力の心配をする事情も理解できる。それはそれとして、もう一つ別の次元で、一人一人が直接的な生命の危険に曝されている。この点が非常に重要だと思います。こうした観点に立つとき、平和の意味は自ずと相対化され、限定されます。平和であるから安全であるとは言えない。平和な状況においても、ぼくたちの生命は常に直接的な危険に曝されている。幸か不幸か、脅威は目に見えず、危機は潜在的です。目に見えず、顕在化していないということが、日本の社会を現状回帰させている。つまり安部内閣を支えているということでしょう。


 いかにして自分たちの生命を守ればいいのか。このことについても、先にあげた二つの側面から考えてみます。わかりやすいので、第二の側面から先に見ていきます。危機は潜在的に遍在しているということです。
 まず言えることは、領土や国家や主権といった近代的な概念は、ほとんど意味をもたなくなっているということです。ウイルスにもテロにも、もちろん放射能にも国境はありません。内と外、安全なところと危険なところといった区別は存在しない。ぼくたちがいるところは、どこでも潜在的に危険な場所であると考えなければならない。逃げる場所、身を隠す場所はどこにもない。世界は全面的に均質化している、と言うこともできるでしょう。
 したがって「国防」という発想では、もはや現状には対処できなくなっている。安全保障のために憲法を改正して国防軍を強化するといったことは、時代錯誤と言うほかありません。国家のような近代的主権によって、ぼくたちは守られていない。国に守ってもらおうとすることも、国を守ろうとすることも、現在の脅威や危機のあり方からして間違っています。日米軍事同盟のような強大な力を恃みにして、「国防」の姿勢を強く打ち出すことは、かえって日本人の生命を危険に曝すことにもなりかねないでしょう。
 一人一人の生命をいかに守るかということを、ぼくたちは当事者の立場で考えていかかなければなりません。無力で無防備な個人の立場で、自分たちの生命を守ることを考えなければならない。このとき日本国憲法は、為政者たちが考えるのとは違った存在価値を帯びてくるはずです。単純に考えて、われわれは憲法九条を擁して平和をめざす国民である、と世界中にアピールすることで、日本人がテロなどに遭遇する危険性は小さくなるでしょう。そのことは日本人が海外で様々な活動をする際に、かなり大きな安全保障の役割を果たすと思います。
 しかし日本国政府が平和憲法の意義を国際社会に向けてアピールするとか、国際政治のなかで憲法九条の内容を実行に移すといったことは、現実的には考えられないと思います。将来、内閣が変わってもありえないでしょう。それは憲法九条がきわめて明快に戦争放棄、軍備放棄を謳っているからです。軍備放棄とは、近代的主権の放棄を意味します。だからどんな内閣ができようと、憲法九条を積極に運用していくことはありえない。国家の最高法規として軍備放棄を掲げることは、近代的国家の論理に反することなのです。
 むしろ憲法九条を運用できるのは、ぼくたち一人一人の国民だし、またそうすべきだと思います。日本国の国民が個人のレベルで憲法を有効に運用し、自分たちはこういう憲法をもっている国民なのだということを、世界に向かって積極的に発信していくべきだと思います。それは先ほど言いましたように、無力で無防備な個人を守るための現実的な力になります。さらに戦争放棄や軍備放棄という理念を共有することによって、国や人種や民族を超えて個人と個人が直接に結びつくことができます。そうしたネットワークを広げることによって、世界に潜在している脅威や危機を少しでも無力化し、中立化していくことができるのではないでしょうか。迂遠に見えるけれど、それが個人のレベルで、ぼくたちの生命を守ることにつながると思います。


 つぎに第一の側面について見てみます。今日的な脅威や危機が、もともと人間のつくり出したもの、とりわけヨーロッパの近代が科学技術とともに生み出したものである、ということです。
 マルクスが述べているように、人間は自然に働きかけ、これを人間的に加工し、自らの「作品」にします。この人間の作り出した「作品」が、様々な面において人間に敵対するものになっている、未来にたいする危機的な予兆として立ち現れてきている、ということだと思います。しかもウイルスにしても、テロや放射能にしても、ぼくたちが生きている世界の基本仕様といいますか、非常にベーシックな部分から生まれてきています。つまりグローバル化した民主主義や資本主義、科学技術のようなものと密接に結びついているわけです。言い換えれば、今日的な危機や脅威は、あまりに人間的であり、あまりにも人間や世界と同化しているということでしょう。そのため危機や脅威をもたらしているものと、自分たちを切り離すことができない。全面的な共存関係にありながら、根源的な両立不可能性という性格をもっている。
 以上のことから言えるのは、従来のやり方や発想ではだめだということです。従来のやり方とは、一言で言えば「否定的な力の行使」ということだと思います。つまり「暴力」です。スーザン・ソンタグが述べているように、現代医学は病気について戦争用語によって軍事的に語ることを好みます。癌を撲滅する、制圧する。「癌戦争」などという言葉もありました。相手は敵であり悪であるから、できるだけ早く発見し、殲滅することが望ましい。現在でも、それが癌治療のスタンダードとされているのではないでしょうか。手術によって取り除く、抗癌剤で殺す、放射線で叩く。まさに戦争の比喩によって語られるわけです。癌患者にたいしても、戦争モデルに則って治療がなされる。その結果、癌細胞よりも患者の肉体の方が先にまいってしまうこともある。
 ウイルスに戦争モデルを当てはめることは、明らかに間違っています。これについては、ぼく自身がB型肝炎ウイルスのキャリアであり、過去に何度か肝炎が悪化して入院したこともあるので、普通の人よりも少しだけ体験的に語ることができると思います。他人事のように言ってしまえば、ウイルスというのはとても面白いものです。肝炎ウイルスは肝細胞のなかに常在するわけですが、それ自体は悪いことをしません。B型肝炎のキャリアのなかで慢性化するのは、十人に一人くらいだと言われています。これはウイルスが増殖するためで、増殖さえしなければ、肝細胞のなかにウイルスがいても問題はないのです。このためB型肝炎の一般的な治療では、ウイルスを排除することを目標としません。ウイルスとの共存、いわゆる免疫的寛容の状態にもっていければいいわけです。
そのために何をすればいいのかということは、実際のところあまりよくわかっていません。ただ体験的に、ぼくはウイルスを活性化させる最大の要因はストレスだと思っています。仕事が忙し過ぎて休む暇がないとか、人間関係が最悪だとか……メンタルな悩みや不安、極度の緊張などが長くつづくと、血流が悪くなるのか、アドレナリンのような物質の分泌量が増えるのかわかりませんが、体内の環境が悪化し、居心地の悪くなったウイルスが目を覚まして活動をはじめる。すると治安維持を任務とする免疫機能が、肝臓方面で不穏な動きが見られるとかいって攻撃を開始する。こうしてウイルス性の肝炎が起こってくる……医学的には正しくないかもしれませんが、ぼくの実感ではそんなふうに説明できる気がします。
 だからニコニコしているのがいいわけです。笑いが免疫力を向上させるというのは、よく知られています。まさに笑いは、暴力という否定的な力のオルタナティブです。癌治療などを見ても、手術や抗癌剤や放射線といった否定的な力を行使する従来のやり方は、人間の身体や健康を全体として考えたとき、あまり有効ではないように思います。ウイルスのように自己か非自己かわからないものを無毒化する、中立化して無力化するためには、まずホストである人間の方がリラックスして、自分にかかっているストレスを解除してやる。そうしてウイルスが活性化する前提となっている、ストレスフルな環境を改善してやる方がいいように思います。
体験的な実感を語っているつもりですが、ウイルスについて語ることは、ほとんどテロリズムについて語ることと同じになってしまいます。双方がお互いの比喩になっている。つまり互換性があるわけです。テロリズムにたいして、軍備を増強して威嚇するといったやり方は、完全に逆効果でしょう。アメリカがやっているような予防的攻撃や戦争は、テロリズムに動機と正当性を与え、さらなるテロ行為を生み出すことにしかならないと思います。テロリズムが生まれる要因として、地球全体のストレスフルな環境といったものが考えられるとすれば、ぼくたちは笑いのような肯定的な力を行使して、この環境を変えていかなければならない。ヒントはそういうところにあると思います。つまり否定的な力のオルタナティブとしての肯定的な力、暴力のオルタナティブとしての笑いです。
 放射能にたいして、従来のやり方で対処するというのは、具体的にはどういうことでしょうか。安全基準を強化して原発を稼働させるとか、より安全な原発をつくるといった発想が、これにあたると思います。要するに、技術的に乗り越えるということです。技術も広い意味で暴力ですから、このやり方も、やはり否定的な力の行使ということになります。
 技術の問題に、もっとも本質的な検討を加えているのはハイデガーだと思います。彼が繰り返し言っていることは、技術とは人間に制御しえない何かだ、ということです。人間は技術にたいして、けっして超越的に振舞うことができない。人間が技術をコントロールしているというのは、見せかけだけのことに過ぎない。コントロールすることは、すなわちコントロールされることである。このような相互的、双方向的な関係こそが、人間の技術の本質である。そのことをハイデガーは「ゲシュテル」という言葉を使って説明しています。
 たとえば水力発電や火力発電にかわって原子力発電という新たな技術が登場することは、技術や産業の歴史として見れば、進歩や発展ということになるのでしょうが、それは同時に、原発を厳重な管理のもとに運転し、一歩間違えば取り返しのつかない放射能災害を引き起こすというような、よりストレスフルな技術との関係にとらわれることを意味しています。仮に、核エネルギーをめぐる技術体系を完成させ、人間に害を与えないようにマネージメントできるようになったとしても、そこにより大きな、より深刻な技術的弊害や破壊性が待ち受けていることは、技術の本質からして、ほぼ確実に言えると思います。


 これまでのやり方や発想を変えなければなりません。核兵器を持つことによって国際舞台でより強い交渉力をもつ、というような発想は変えていかなければならない。核に抑止力などない。核にあるのは支配力だけです。戦後六十年にわたって最大の核保有国でありつづけているアメリカが、その間、平和であったことはないという事実が、そのことを如実に物語っています。何よりも核兵器の存在が、地球全体をストレスフルな環境にしているわけですから、ぼくたちは核兵器をなくすという方向で、人々の合意をつくり出していく必要があります。
 否定的な力にかわる肯定的な力を、ぼくたちは見出していくべきでしょう。肯定的なメッセージを発して、ぼくたちのなかに眠っている肯定的な力を目覚めさせ、これを活用していくべきです。そのようなメッセージとして、ぼくは「愛」という言葉を使いたいと思っています。
 古代ギリシアの哲学者たちは、愛を心理的なものではなく、引力のように結合をもたらす物理的な力と考えていたようです。反対に、憎しみは分離をもたらす斥力ということになります。こうした文脈で「愛」という言葉を使うことはできないでしょうか。つまり人と人を結びつける力として、「愛」を再定義するということです。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが「愛」を政治的概念として使うことを提唱しているのも、同じようなことを考えているのではないかと思います。とくに近代以降、「愛」はロマンチックな文脈やプライベートな文脈でのみ語られてきました。男女の恋愛や家族愛といった、限定的な場面に追いやられてしまった。ぼくを含めて、小説家も悪いのです。だから懺悔の気持ちも込めて、もう一度、「愛」をパブリックな文脈に引き戻したいと考えています。
 憎悪や敵対心のような否定的な感情ばかりが、ぼくたちの世界を覆っています。その原因は、この世界の不公正さにあります。世界全体として見れば、食糧にしても工業製品にしても、総生産量としてはほぼ足りていると言われる。しかし非常な富みの偏りが生まれている。つまり配分の仕方に問題があるわけです。金融経済の拡大が、それに拍車をかけています。多くの餓死者が出ている国や地域がある一方で、食べ物を無駄に捨てている国があるというのは、やはり間違っています。そのことについては、誰もが合意できるでしょう。そうした合意点を少しずつ増やし、積み上げていく必要があります。
 食糧にしてもエネルギーにしても、世界中に人々の消費量は、ほぼ均一になる方がいいわけです。その方が、安定した安全な世界になることはわかりきっている。そのためにぼくたちは、物質的には少しずつ貧しくなっていく必要があります。豊かに、幸せに貧しくなっていく方法が、かならずあるはずです。そうしたやり方や仕組みを考えることが、もっともクリエイティブな仕事になると思います。すでに余っているものや、必要のないものを作ることに、真の意味での創造性はありません。そんな生き方は空しいと思います。
 これからはクリエイティブな生き方、クリエイティブな仕事が、ますます「愛」と結びついていくことになるでしょう。ぼくたち一人一人が個人として、「愛」の力を行使する場面が増えてくるはずです。具体的には、非正規雇用の賃金を正規雇用よりも高くすることを国に求めていくとか、グローバルなベーシックインカムを構築していくといったことが考えられます。このような「愛」の力は、いくら使っても減ることも、なくなることもありません。むしろ使えば使うほど増殖していく。そこに大きな可能性を感じます。大雑把な話でしたが、これで終わらせていただきます。(2013.3.20 福岡市都久志会館)