> 2012年9月のブログ

あの本、この本⑩

『苦海浄土』を読む 

 石牟礼道子の『苦海浄土』を読んだ。「死旗」「五月」「九竜権現さま」「海石」の四編には、文字通り心が震えた。大袈裟ではなく、打ちのめされた。
 この作品を読んでみる気になったのは、五十年にわたって水俣病の解明と患者の救済に尽力され、先ごろ亡くなった原田正純医師のテレビ番組(NHKプラネット九州制作)を観たのがきっかけだ。原田医師の言葉と人柄に導かれて、それまで近づきがたかった水俣病について、いまさらながら勉強してみようという気になった。
 これまで水俣病と、それをめぐる言説を敬遠してきたのは、子どものころにさんざん観せられたニュース映画のせいかもしれない。あのころは小学校の先生に引率されて、ときどき学年全員で映画を観に行くことがあった。そのときに目にした胎児性水俣病患者の姿や、路上を狂ったように乱舞する猫たちの映像は、あまりにも生々しく、ショッキングだった。どうしてこんなことが起こっているのか。たんに恐ろしいというよりは、おぞましい。子どもの目には、何か淫らなものにさえ感じられた。
 さらに言葉と自覚的にかかわるようになってからは、手に余る事柄については語らないことを、自分のなかで一つの戒律にしてきた。大きな悲惨を前にすると、ぼくたちは思考停止の状態に陥り、ついつい「絆」とか「やさしさ」といった空疎な言葉を口にしてしまう。「二度と過ちは繰り返しません、安らかに眠ってください」みたいな欺瞞にたいして感覚が麻痺してしまう。文学者が「いい人」になってはおしまいだ。そんな自戒の思いもあって、原爆からも公害病からも距離を置いてきた。
 少なくとも水俣病にかんして、呪縛が解けはじめるまでに、ぼくのなかで半世紀近くの時間が流れたことになる。

 この小説を読んですぐに想いうかべたのは、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』だった。マルケスの小説のなかで、多くの個性的な人物たちが登場しては消えていくように、『苦海浄土』のなかでも、山中九平少年や仙助老人や坂上ゆき女や江津野の爺さまといった様々な人たちが登場しては消えて(死んで)いく。また具体的なエピソードやディテールを書き込み、章によっては医師の報告書や新聞資料など生のドキュメントをそのまま使う、といったリアリズム的な手法をとりながら、全体の印象は神話的であるという点も、マルケスをはじめとするラテンアメリカの作家たちと共通している。常套的な表現を使えば、「魔術的リアリズム」と言ってもいいかもしれない。それは水俣や不知火の海といった土地と自然に密着した人々の生を、ほとんど接写に近い距離で描くことによって生まれてくるものだろう。
 いちばんの読みどころは、やはり登場人物たちの語りの部分になるかと思う。彼らは本来、言葉をもたない者たちだ。しかし極限的な状況のなかで、一人一人が言葉にならない言葉で憤り、嘆き、悲しみ、苦しんでいる。彼らの目に見えない心の動き、沈黙のうちに込められている人間性や精神性に、作者はできるかぎり寄り添おうとする。すると口寄せのように、物言わぬ患者や家族たちが、彼ら自身がひそかに培ってきたとしか思えない言葉で語りはじめる。そうした強靭で魅力的な語りの文体を作り出している点が、本作品の最大の達成であると思う。
 こうしてぼくたちは、普通ならけっして発せられることのなかった言葉、黙したまま歴史の闇に消えて行かざるを得なかった言葉が、一人の作家によって沈黙から救い出される瞬間に立ち会うことになる。彼らはみんな言葉をもたずに生まれ、貧しさのなかに生き、身に覚えのない災禍に見舞われ、誰にも理解されないまま、もがき苦しみながら死んでいくはずの人たちだった。その内面に、一人の作家が言葉を与える。すると彼らの生はにわかに存在を主張し、一人一人の苦悩は鮮烈に立ち現れ、彼らが生きている苦海は、自然の美しさによって浄化され、ぼくたちに忘れがたい印象を残す。彼らが沈黙という内面に抱えている様々な感情、絶望や苦悩や怨念や葛藤や疑問や諦観、そこに表出される深い人間性と精神性が、読む者の心を打つ。これが本来の意味でのヒューマニズム文学だろう。
 ドストエフスキーは、一人一人の人間が抱えている苦悩の大きさや深さだけを文学的な価値とみなした。この作者も、同じ文学観をもっているように思う。機能的な面でのみ人間を評価するなら、ぼくたちの世界はどんどん悪いものになっていくだろう。人間は役に立たないことの価値を知る動物であり、そのことが人間性の根幹を形作っている。人間に苦悩という光を当てるなら、病人も障害者も老人も死者も、健常な者たちとまったく同質であり「平等」である。そのことを理解し、共感しうるところに人間の人間性はある。人間の本質とは、「無価値の価値」であると言うこともできるだろう。
 それにしても、ここに描かれた人物たちが見せる崇高な無垢とも言うべき、人間の実存の深い表情はどこからやって来るのだろう。たとえば一人の老人は、排泄すら自由にならない胎児性水俣病の孫について、「この杢のやつこそ、仏さんでござんす」と言い切る。このやさしさは悲劇的なまでに崇高である。これを超えるどんな価値も、人間のなかにはあり得ないとさえ思わせられる。ぼくたちが心の底から打ちのめされるのは、こうした言葉に触れるときだ。「わしども夫婦は、なむあみだぶつ唱えはするがこの世に、この杢をうっちょいて、自分どもだけ、極楽につれていたてもらうわけにゃ、ゆかんとでござす」という彼の言葉は、ぼくたち人間にとって生きることと死ぬことが、どういう意味をもつのか、またもつべきなのか、虚飾のない率直さで告げているように思える。
【石牟礼道子『苦海浄土』講談社文庫】