> 2011年10月のブログ

猫々通信⑤

 近代以降(神が公的な場から退出して以後)、愛について語ることは、私的な領域へ追いやられている。愛はエロティックであるか、ロマンティックであるか、家庭的であるか、いずれかの文脈においてしか語り得ないものになっている。世界というヴィジョンのなかで、いかに愛を語るか。それが文学にとって、最大の課題であると言っていい。
 現在、世界中の人々が、いちばん聞きたがっているのは、愛についての語りである。同時に、世界中の人々が、いちばん聞きたくないのも、おそらく愛についての語りなのだ。イエスは、まさに愛について語った。神の愛について。敵を愛することについて。彼自身が愛の人だった。だが、そうしたイエスの言葉が、地球上の半分の人間にとっては聞くに堪えないものになっている。彼らは愛についての語りに耳を傾けるかわりに、復讐について声高に語る。それが現在の世界のありようだ。
 どうしてこんなことになっているのだろう。資本主義や市場経済のせいだろうか。そうかもしれない。グローバル化した経済活動のなかで生み出される格差が原因なのかもしれない。なぜなら愛についての語りは、どのようなものであれ、対等な関係にある者たちのなかへしか浸透していかないからだ。格差のつき過ぎた世界では、憎しみや復讐の話ばかりが容易に伝わってしまう。
 この世界において、愛について語ることは可能だろうか。愛について、なお語るべきことは残されているだろうか。もちろん残されている。肝心なことは何一つとして、いまだ語られていない。砂漠で殺し合う兵士たちの足元にも、愛について語るべきことは埋まっている。無尽蔵に埋まっている。けっして石油のように掘り尽くされてしまうことはない。地球上に生をつなぐ六十数億の者たちは、ただ一人の例外もなく、愛について語るべきことをもっている。誰の心のなかにも、愛について語るべきことは眠っている。そして誰も、それについて語る言葉をもたない。
 だからこそ、あのラ・マンチャの男のように、ぼくたちは愛について語りつづけなければならない。そこに文学の限りない可能性があると思う。