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あれも聴きたい、これも聴きたい④

はっぴいな高校生だったころ

 高校一年生のときに、はじめてバンドを組んだ。ぼくが高校に入学したのは1974年。そこで知り合った山本君の家に遊びに行くと、部屋にニール・ヤングの『ハーヴェスト』とはっぴいえんどの『ライヴ』があった。二枚とも、そのころぼくが夢中になっていたアルバムだ。意気投合したぼくたちは、バンドを作ろうということになり、さっそくメンバーを集めることにした。ベースのシンくんとドラムスのショージくんは、ディープ・パープルなどのハードロックが好きで、ぼくたちとはかなり嗜好が異なる。でも、これらの楽器を持っている友だちは他にいなかったので、とりあえずこの四人でバンドを組むことにした。
 バンド名は「あめだまカンパニー」、略して「あめカン」である。「あめだま」はもちろんキャラメル・ママの「キャラメル」を意識したネーミング。「カンパニー」はバッド・カンパニーに由来する。当時、最高のハードロック・バンドは、ポール・ロジャースがミック・ラルフスなどと結成したバッド・カンパニーである、というのがぼくたちの共通した認識だった。それでハードロック派のシンくんとショージくんに配慮した名前を考えたのである。「あめカン」は民主主義的なバンドであった。
 山本君がヴォーカルで、ぼくはギターである。はっぴいえんどに憧れて結成したバンドだから、当然、日本語の歌詞によるオリジナル、というのがバンドの基本方針となった。さっそくぼくと山本君は曲作りをはじめた。カミュの『異邦人』について書いた読書感想文で賞をもらったことのある山本君が、歌詞を担当することになった。
 さらにはっぴいえんどを研究するために、ぼくが『風街ろまん』を、山本君は『ゆでめん』を分担して買うことにした。ぼくたちは愛媛県宇和島市においてこれらのレコードを買った、おそらく二番目か三番目の市民であったはずだ。その研究の成果もあって、山本君はもろ松本隆風の歌詞を幾つか作った。ぼくは細野さんの「風をあつめて」みたいな曲が好きだったので、そんなメロディをつけた。黄金のソングライター・チームの誕生である。
 その年の夏に、ディランとザ・バンドのライヴ盤が出た。ぼくは中学校のころからずっとディランのレコードを集めていたので、このアルバムもすぐに買った。その日から、ぼくは「ロビー・ロバートソン=命」の人になった。ただちに山本君に、ザ・バンドがいかに素晴らしいかを話し、当時のレコード分担購入体制に則って、彼はさっそく『ロック・オブ・エイジズ』を買った。その夏は、ずっとこの2セットのライヴ・アルバムを貸し借りして聴きつづけた。ぼくはザ・バンドの「ウェイト」のコード進行を使って、「ひなたぼっこ」という曲を作った。もちろんはっぴいえんどの「かくれんぼ」を意識している。そういうのが多いのである。そこがバンドの限界でもあった。  
 どんな曲を演っていたのか、と言われても困るが、音源は残っていないはずだから、誰にも反証されないのをいいことに言わせてもらえば、はちみちぱいの『センチメンタル通り』みたいな音だったと思う。このアルバムの二曲目に「土手の向こうに」という曲が入っている。大学生になってからはじめて聴いたとき、まるで自分が作った曲のように思えた。演奏はずっと下手だったけどね。
 二学期になり、夏休みのトレーニング成果を問うべく、ぼくたちはオリジナル曲を引っ提げて、ヤマハ・ライトコンテスト宇和島市予選に出場することにした。自信満々であったにもかかわらず、一次予選を通過することができなかった。審査員の耳が悪かったのだろう。中島みゆきの「時代」がグランプリをとった年である。そのころからバンドのなかで「あめだま」組と「カンパニー」組の音楽的対立が表面化し、ベースとドラムスの二人は、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を演りたいがために、別のメンバーとコンサートに出るなど、しだいに分派闘争をエスカレートさせていく。そんなこともあって、年末の宇和島市公会堂におけるコンサートを最後に、バンドは解散することになった。
 その後、ぼくと山本君は二人で、「アイ・シャル・ビー・リリースト」や細野さんの「恋は桃色」のコピーなどをしていたが、そうしたデュオ活動も、意気が上がらないうちに自然消滅していった。ぼくは『ヤング・ギター』という雑誌でオープン・チューニングの特集をしていたのを見て以来、変則チューニングに凝るようになり、また、そのころ入れ上げていたスティーヴン・スティルスの「青い目のジュディ」の影響で、「これからは組曲や!」と思ってしまい、やたら複雑で長い曲を作っては、音楽の歌唱テストの時間などに発表し、「ええかげんに、やめんか!」とクラスメートたちの罵声を浴びるのだった。
 2004年のはっぴいえんどBOXによって、彼らのライヴ音源がまとめて聴けるようになった。ぼくがはっぴいえんどを聴いていたころ、彼らのライヴは下手だったと言われていた。そうした「伝説」にたいして、BOXに付いているブックレットのなかで、メンバーの何人かが反論しているのがおかしかった。「演奏も上手いじゃないか」と。そうか? 本人たちのなかでも期待値が低かったのかな。
 三枚のオリジナル・アルバムと一枚のライヴ盤を残して解散してしまったはっぴいえんどだけれど、メンバーたちのその後の活動を、ぼくはずっと追いかけることになる。そして当年とって52歳になったいまも、なお追いかけつづけているのである。