> 2012年2月のブログ

あの本、この本⑨

『経済学・哲学草稿』ノート

1.
 福島の原発事故を契機に、ぼくたちは原子力にかんして根本的に検討する必要に迫られている。そこでマルクスを手がかりに、人間と自然の関係について、あらためて考えてみたい。
 いわゆるマルクス主義の文献においては、経済的なカテゴリーで語られる「疎外」から、状況論的なものを削ぎ落していくと、最後にはヘーゲルからギリシアの自然哲学へと連なる弁証法的な概念としての「疎外」が残る。そもそも弁証法は、ギリシア古代哲学の時代から、二元論的な自然や宇宙のとらえ方としてはじまっている。すべての存在は、二つの対称的な性質からなっている。この二元論的なものによって、世界は不断に生成してくる。すなわち絶えず立ち現れてくる矛盾と、その矛盾を乗り超えようとする運動によって、世界は弁証法的に展開していく。
 こうした弁証法的な思考を、マルクスは人間と自然の関係に持ち込んだ。両者の矛盾したあり方から、現実的な世界において、人間の活動が自然との弁証法的な過程として展開していくことを「疎外(Entfremdung)」と呼んだ。それは善でも悪でもない。また資本主義的な生産様式のもとで立ち現れてくる特殊な現象でもない。人間が人間であることの根幹をなす、本質的なあり方である。

 「動物はその生命活動と直接的に一つである。動物はその生命活動から自分を区別しない。動物とは生命活動なのである。人間は 自分の生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象にする。彼は意識している生命活動をもっている。〔人間は生命活動 をもつものとして規定されるとしても〕それは人間が無媒介に融けあうような規定ではないのである。意識している生命活動は、 動物的な生命活動から直接に人間を区別する。」(『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳)

 人間は意識をもつことによって、動物的な生命活動から自己を「疎外」した存在であることが言われている。この認識は、マルクスの思想に根底にあるものであり、現在においても、まったく無修正で通用すると思う。
 たとえば動物は肉体的な欲求に従って、必要なものだけを捕食して消費する。巣や棲み処を作る場合も、繁殖などに必要なものだけを生産する。こうした意味で、動物が生きることは「生命活動そのもの」である。人間が生きることは、これとは異質のものだ。たしかに生物学的に見れば、人間は動物の一つの種であり、自然の一部分である。その生命活動は、自然のなかに組み込まれているとも言える。他方で人間は、自らの生命活動そのものを意識の対象にする。人間は自らがその一部である自然を意識化し、これに対象的に働きかける。それが人間の生命活動である。つまり人間は生命活動のレベルにおいて、すでに自然からの「ずれ」として存在してしまっている。
 このように自らを含めた自然にたいして意識的・対象的に振舞えることが、人間の活動を「自由」なものにしている。「動物はたんに直接的な肉体的欲求に支配されて生産するだけであるが、他方、人間は肉体的欲求から自由に生産し、しかも肉体的欲求からの自由のなかではじめて真に生産する。」この「自由」が、人間の活動に変化や進歩をもたらす。また美や芸術を含めた、人間のあらゆる創造的行為を可能にする。一方で、こうした「自由」のために、人間は必要のないものまで生み出してしまう。そして生み出されたものに応じて、際限のない欲望をもつ。これが資本主義の原理である。
 動物的な生命活動から、あるいは自然から、自己を「疎外」した存在であることにおいて、人間は人間である。そこに人間の「自由」と普遍性がある。すなわち物心両面における、人間的な豊かさの根源がある。

 「人間の普遍性は、実践的にはまさに、自然が直接的な生活手段である限りにおいて、また自然が人間の生命活動の素材と対象と 道具であるその範囲において、全自然を彼の非有機的肉体とするという普遍性のなかに現れる。自然、すなわち、それ自体が人間 の肉体でない限りでの自然は、人間の非有機的身体である。」(城塚・田中訳)

 人間は意識をもつことによって、自然全体を活動の対象とする。人間によって意識化され、対象化された自然を、マルクスは「非有機的肉体(unorganishen Ko”rper)」や「非有機的身体(unorganishen Leib)」と呼んでいる。こうした言い方は、初期のマルクスに特有なものであり、「疎外」という概念を中心に展開される彼の思想が、現在までを射程に収めたものとなりえている、大きな要件になっている。
 人間は全自然を、自らの「非有機的身体」となす。この不思議な言い方で、マルクスは二つのことを示そうとしている。第一に、人間は全自然を利用可能な対象にする。第二に、人間は自然を利用するために、それを人間化する。人間は自然を人間化していくことによって、最終的に全自然を利用可能な対象にする。ここに、マルクスは人間の本質と普遍性を見ている。
 人間も動物である以上、自然によって生きる。自然を糧として生命活動を営み、自然と交流することによって、自分たちの生活を組み立てていく。そのかぎりにおいて、人間も他の動物たちと違いはない。人間の特異な点は、自然との交流が直接的ではないということだ。人間は自然をそのまま利用することをしない。かならず手を加える、加工するという媒介項を経て利用する。人間が自然によって生命活動を営むということは、多かれ少なかれ、自然を人間にとって都合よく変えていくこと、つまり人間化していくことを意味している。
 こうした人間から自然への働きかけのなかには、文字通り自然に物理的に手を加えて変化させるということの他に、もう一つ、対象化したり概念化したりすることによって自然の「意味」を変えるという、知的な働きかけが含まれている。人間が自然に働きかけるとき、人間はあらかじめ自然を対象化し、概念化している。その時点で、すでに自然は人間化してしまっている。さらに実際に自然に働きかけることを通して、そこから多くのことを学び、知恵や知識を身につけ、自然の構造自体を認識していく。自然科学的な知見とは、このようにして生まれてきたものだ。
 つまり人間と自然との関係は、人間から自然への一方向的な働きかけに終わるのではなく、その過程において人間は、物理的にも知的にも、自然からの働きかけを受ける。人間と自然との交流は、かならず双方向的なものである。人間から自然へ向かっての働きかけと、自然から人間へ向かっての働きかけは、常に同時進行的に起こっている。

 「その活動(対象世界の加工)を通じて、自然は人間の作品(Werk)となり、人間の現実(Wirklichkeit)となる。だから、労働 の対象とは、人間の類的生活を対象化したものだ。人間は意識においては自分を知的に二重化するだけでなく、生産活動において も現実に自分を二重化し、自分の作り出した世界のうちに自分の姿を見てとる。」(『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳)

 動物にとって自然は、自分と同質なものであり、そこには質的な隔絶はない。しかし人間にとっての自然は、けっして無媒介に融合できるものではない。人間は発生点において、自然からの「ずれ」として、あるいは自然にたいする「異和」としてはじまっている。そのために人間が活動的に生きていくことは、自然としての自己と、非自然としての自己とに自らを「二重化」し、その矛盾と乖離を大きくしていくことでもある。
 自然との交流において、人間は自然にかんする知識を蓄えながら、道具や技術を介して、より広範な自然とかかわっていく。そのことによって、さらに広範な自然との交流が可能になる。まさにマルクスが述べているように、人間は可能性として、「全自然を彼の非有機的肉体とする」のである。この度合いが大きくなればなるほど、人間はますます人間的になっていく。そのことにおいて人間は、ますます大きく自然から乖離していく。こうした自然と人間の特異なかかわり方を、マルクスは「疎外」と呼んでいる。
 原子力はウラン濃縮という技術を介して、天然ウランを人間の「非有機的身体」とすることを可能にした。それは自然の人間化の、一つの究極的な姿を象徴している。一方で、人間の「非有機的身体」である自然は、これを大切にする、保護する、親しむ、愛でる……といった、きわめて人間的な意識を発達させる。
 原子力もエコロジーも、マルクスが「自分の作り出した世界のうちに自分の姿を見てとる」と述べているように、人間の本質や可能性が現実化したものである。両者は、マルクスが「疎外」と呼んだ人間と自然の関係の、きわめて現代的な姿であると言えるだろう。だとすれば、エコロジー的な発想によって、原子力を超えることはできないのではないか。なぜなら二つは同じ原理の上に立っているからだ。
 エコロジーや自然保護といったマナーが生まれてくるためには、自然破壊や放射能汚染を経験する必要がある。ヨーロッパのエコロジーや自然保護は、そのようにして生まれてきた。問題は、人類全体が自然破壊や放射能汚染を経験することに、地球の環境も人類も持ちこたえられないということだ。すると方法は二つしかない。先進国が強力なルールを作って、自分たちのマナーを他の地域や国々に受け入れさせるか、それとも原子力とエコロジーを、二つながらに超える視点を生み出すかだ。
 言うまでもなく、現在の国際情勢は前者の方向へ進もうとしている。それはそれで結構なことかもしれないが、ぼくたち一人一人が考える余地は、ほとんどない。ぼくは自分一人で考えられることを考えつづけようと思う。