> 2012年5月のブログ

「出発」としての死


 現在、ぼくたちの社会ではほとんどの人が医学的な死を受け入れています。厳密に言うと、脳死(脳幹死)から細胞死まで、かなり幅があるわけですけれど、一応、医者から「ご臨終です」と言われれば、家族はそれを受け入れるわけです。そして時間をおかずに、斎場に電話をかけて葬儀の準備に入ります。通夜をあいだに挟んで、つぎの日には火葬にしてしまう。
 その一方で、アンケート調査などで来世観をたずねると、「あの世はある」と答える人の方が、「あの世はない」と答える人よりも多いという結果が出たりします。魂の存在を信じるか否かという質問でも同様です。はっきり「信じる」という人は少ないかもしれませんが、どちらとも言えない、よくわからないといった答え方をする人は意外と多いのです。「信じない」という人は、むしろ少数派です。このことをどう考えたらいいのでしょうか。
 哲学者の内山節さんは、「理解」と「諒解」という二つの言葉を区別して使っておられます。理解とは論理的、合理的にわかることです。近代哲学でいうところの「認識」に近いでしょう。これにたいして「諒解」とは、なんとなくわかるということです。筋道だった説明はできない、仕組みや操作方法はわからないけれど、なんとなく納得できる、受け入れることができる。
 医学的な死というのは、理解できる事柄に入ると思います。心停止や呼吸停止、つまり生命活動の停止として、論理的、合理的に説明される。それをぼくたちは理解する。だから受け入れるのです。これにたいして「あの世」や「魂」というものを、論理的、合理的に説明することはできません。そういうかたちで理解できる事柄ではないということでしょう。しかし理解できないから、受け入れないかというと、そういうことではないらしい。うまく説明はできないけれど、なんとなくあるような気がする。あるかないかわからないけれど、「ない」と言い切ってしまうことには抵抗がある。そういうものとして、多くの人が漠然と「あの世」や「魂」のことを諒解しているのだろうと思います。
 ぼくたちの人生には、すっきり説明できないことがたくさんあります。とくに生や死にかんしては、論理的、合理的に説明できることの方が少ないと言っていい。たとえば親を亡くした人が、父親なり母親なりが、どこかにいるような気がする、自分を見守ってくれていると感じる。それはけっしてミステリアスな体験ではなく、常識の範囲内で諒解できることではないかと思います。どうして死んだ者がいるような気がするのか、自分を見守ってくれていると感じるのか、その仕組みを説明しろと言われてもできないわけです。無理に説明しようとしない方がいいし、また説明できないからといって、否定してはいけないと思います。説明できないこと、論理や合理を超えたことのなかに、大切なものがたくさんあるからです。
 死とは何かという問いにたいして、医学や生物学は一つの答えを与えます。それは生命の仕組みと、生命が閉じられていくプロセスを論理的、合理的に説明します。ぼくたちはそうした説明を理解できます。また、その説明は概ね妥当なものだと思います。個体を形作っている細胞がみんな死んでしまえば、生物学的にその個体は死んだと言えるだろうし、最終的には水と炭素に分解されてしまう。物質のレベルで死を記述すれば、おおよそそんなふうになるでしょう。そのことに異論はないのです。しかしそれで死がわかったかというと、全然わかった気がしない。何か充たされないものが残ってしまう。未解決なものが残ってしまうように思える。
医師が臨終を宣告することによって、その人の何が終わることになるのか。物質的なレベルでの、その人は終わるのかもしれない。目に見える、手で触れることのできる対象として、終わるのかもしれない。じゃあすべてが終わるのかというと、そんなことはないわけでしょう。本当の問題はそこからはじまるのかもしれません。死について考えようとするとき、医師が「ご臨終です」と宣告を下す時点は、終着点ではなく、むしろ出発点ではないかと思います。


 こんなことを考えるようなったのは、ぼく自身の入院体験がきっかけでした。もう十五年ほど前のことですが、たまたま血液検査で肝機能が悪いことがわかり、詳しく調べてみるとB型肝炎だったのです。輸血歴もなく、うちの母はキャリアではないので、たぶん予防接種のときの感染だと思います。肝炎の場合は、肝臓に炎症が起こってくるとトランスアミナーゼという酵素が血中に出てきます。この値があまり高くなると、肝不全や劇症肝炎に至るおそれがあるので入院ということになります。ぼくの場合は、肝炎とわかったころが、ちょうどウィルスの活動期だったようで、二年つづけて、それぞれ一ヵ月から二ヵ月くらい入院することになりました。
 ぼくがいたところは一種の隔離病棟で、入院しているのはほとんどウィルス性肝炎の患者でした。この病気では、炎症を繰り返しているうちに、徐々に肝臓が線維化していき、いわゆる肝硬変になり、そこから肝細胞癌が出てきて、というのが一般的なパターンです。みんながみんなそうなるわけではありませんが、そうなった人たちが入院していたわけです。インターフェロンを使っている人。エタノール注入療法を受けている人。腹水が溜まって苦しんでいる人。同室の人が肝性脳症を起こしたこともありました。そういうところに長くいると、自分もいずれこうなるに違いないと思えてくるわけです。あたかも五年後、十年後の自分がベッドに横たわっているような気がして、どんどん悲観的な気分になってくる。
 当時は、B型肝炎の治療法はほとんどありませんでした。いまは抗ウィルス剤を使ってウィルスの増殖を抑えることができるようになっていますが、そのころは自己免疫だけが頼りだったのです。とにかく安静にして、強力ミノファーゲンCという炎症を抑えための静脈注射を受けるくらいです。それで自然にウィルスの活動が収まってくるのを待つ。なるようにしかならないというか、運を天に任せるしかないという感じでした。ぼくは毎晩、眠る前にウィルスに語りかけていました。「追い出すつもりはないよ」とか「そこにいてもいいから、おとなしくしておいてくれよ」とか。そうやって懐柔するというか、できるだけウィルスと友好的な関係を取り結ぼうとしたわけです。
 そのころ死について、わりと一生懸命に考えました。なんと言っても当事者ですからね。嫌でも考えてしまうわけです。考えてどうなるものでもないし、考えたからといってわかるものでもない。でも考えずにはいられない。とくに子どもたちのことは考えました。うちは男の子が二人なのですけど、まだ中学一年生と小学五年生くらいだったので、いま別れるのはいやだなとか、せめて大学に入るくらいまでは生きていたいとか……とにかく悲観的になっていますからね。
 そのときに思ったのは、死んでいく者にとっても、また死なれる側といいますか、残される者たちにとっても、いろんな事情があるのだということです。同じ病気で死ぬにしても、個々のケースですべて違う。一人一人にそれぞれの思いがある。それに応じて、百人百様の死があるべきだと感じました。一方で、医学や生物学が定義する死というのは、あまりにも大雑把過ぎるのではないかと思いました。たしかに死は、すべての人間に例外なく訪れるものですが、同時に、非常に個人的な体験でもあるわけです。医学や生物学とは別の言葉で、一人一人の死が個別に定義されるべきではないか。
 肝臓というのはかなりキャパシティのある臓器らしくて、入院しなければならないほど肝機能が悪くなっているにもかかわらず、自覚症状はほとんどありませんでした。治療といっても、一日に一回注射を受けて、あとはベッドに寝ているだけです。食欲はあるし、入院するまでは剣道をしていたくらいですから、じっとしているのが退屈でしょうがない。一応、病棟内安静という指示が出ていまして、病棟の外に出るときには許可をもらわなくてはならない。それが面倒くさいので、秘密の通路を開拓して、ちょくちょく病棟を抜け出しては、構内を散歩したり、コーヒーを飲みにいったりしていました。
 その脱出用の通路は正規のものではないので、途中で小児科病棟を通り抜けないと外に出られません。ぼくは毎日のように出かけていっては、入院している子どもたちを観察していました。いろんな子どもたちが入院していました。生まれたばかりの赤ん坊から、小学校高学年くらいの子まで。赤ん坊のほとんどは未熟児です。歩いている子どもたちの多くは、腕に点滴のラインを入れて、スタンドを転がしていました。膝まで矯正器具をつけ、歩行器につかまって歩いている子とか、髪の毛のすっかり抜けてしまった子とか……。
 様々な病気を抱えた子どもたちが、ベッドの上でプラモデルを作ったり、食堂で熱心にテレビを観たり、コップのなかのコーンフレークにミルクを注ぎ入れたりしながら、淡々と入院生活を送っているわけです。プレイルームでは院内学級が開かれているらしくて、部屋の壁には「朝の会」や「帰りの会」といった一日のスケジュールを書いた画用紙が掲げてありました。また子どもたちの字で、飼育委員や保健委員や図書委員といった、委員会活動の担当者名を書いた紙が貼ってあるのも印象的でしたね。廊下には千羽鶴が吊り下げられていました。
 そして子どもたちと同じくらいの数の、母親たちがいるのです。彼女たちはみんな明るくエネルギッシュに見えました。そうでなければ、長いあいだ子どもたちを看病することはできないのかもしれません。廊下に面した病室の窓には、完成したジグソーパズルが幾つも並べてありました。どれも二つ切り画用紙くらいの大きなもので、図柄は動物とかアニメの主人公とかです。入院している子どもと親が、何日もかけて一つ一つのピースを埋めていったのだなと思いました。
 それまでぼくは自分の死にかんしては、わりと唯物論的に考えていました。つまり医学や生物学が説明する死を、そのまま受け入れていたわけです。「死ねば死にっ切り」といいますか、生命活動の停止をもってすべてが終わる、というということで自分のなかでは納得しているつもりでした。しかし小児科病棟に入院している子どもたちや母親たちを見ているうちに、そんなふうに割りきってしまうのは、傲岸不遜なことではないかと思うようになりました。
 たとえば幼い子どもを病気で亡くす親にとって、「死ねば死にっ切り」でも、「死は無に帰すこと」でもないはずです。もっと個人的なものとして、死は諒解されているはずなのです。彼らのあいだだけの秘められたものとして、死はあるはずです。言葉では説明できないし、また説明する必要もない。親と子の関係のなかで、ジグソーパズルを埋めていく時間のなかから定義されてくる、彼らだけの固有な死があるはずです。そのような死にたいして、他人が言葉を差し挟むことはできない。医学的な知見も、あるいは宗教的な権威も、立ち入るべきではないと思います。
 また自分自身の死についても、「死は無に帰すことである」などと言って済ましておくことはできないと思いました。ぼくの場合も肝臓病を患って、具体的に自分の死というものが視野に入ってくると、幼い息子たちに「お父さんは遠からず無に帰すことになるけど、あとはよろしく」などと言って死ねないわけです。そういうかたちで死を受け入れることはできない。「死ねば死にっ切り」でも、「死は無に帰すことである」でも、ずいぶん余裕のある言い方だなと思いました。
 日常的といいますか、平穏無事のあいだは潔いことを言っていても、実際に死が切迫してきたときには、どうなるかわからない気がします。臨終の瀬戸際では、何が出てくるかわからない気がします。無神論で通してきた人が、突然、神を信じるようになるかもしれない。そういうことはありうると思います。あまり先走って、わかったような気にならない方がいいと、いまは自戒の意味をこめて思っています。


 入院中に、死について書かれたいろいろな本を読みました。そのなかの一冊に、エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』という本があります。かなり古い本で、初版は六十年代の末に出ています。ターミナルケアの古典ということで、いまでは看護学のテキストなどでも取り上げられているようです。キューブラー・ロスの研究チームがおこなったことは、末期患者へのインタビューを通して、人が死を受け入れていく過程を明らかにすることでした。これが有名な「死の五段階説」(否認、怒り、取引、抑鬱、受容)と呼ばれるものです。
 この本のなかに、再生不良性貧血の十七歳の少女が出てきます。やはりインタビューに答えているのですが、その内容が、ぼくにはかなりショックでした。自分の病気をどう受け止めたかという質問にたいして、彼女は「はじめのうちはよくわからなかったけれど、そのうち、病気になったのは神の意思なのだという気がしてきた」と答えています。また、死をどんなものだと考えているかという質問には、「すばらしいものだと思う」と答えています。家に帰るようなものだと言うわけです。神様の近くにあるもう一つの家に帰るようなもので、だから死は怖くないのだと、はっきりそう答えています。
 これには驚きました。驚いたというか、呆れたというか、キリスト教というのはすさまじいものだと思いました。同時に、なんか傲慢な気がして、こんな女の子は好きになれないなと思いました。つまり「関係」ということが全然考えられていないわけです。彼女の死を悲しむに違いない両親とか、自分以外の人にたいする配慮がなさ過ぎると思ったのです。たとえばぼくが彼女の恋人であったとして、死を前にした恋人から、「死はすばらしいものよ」とか「神様の近くに行けるので、いまからもうわくわくしているの」とか言われたら、ちょっとたまらないというか、立つ瀬がないという気がします。「おれと神様とどっちをとるんだ」とか言って詰め寄りかねない。
 そのことがずっと気になっていたので、退院してから、この再生不良性貧血で死んでいく少女のことを、彼女の恋人の視点から書いてみようと思いました。それが『世界の中心で、愛をさけぶ』という小説です。あの小説の最初のモチーフは、そんなところから着想されているのです。小説がヒットして、「誰か身近な人を白血病で亡くされたのですか」という質問をよく受けましたが、そういうわけではありません。一つの関係のなかで体験される死といいますか、そこで何が終わるのか、あるいは何かがはじまる兆しのようなものを見出すことはできるのか、そんなことを考えながら書いたのです。
 いまあらためて、この十七歳の再生不良性貧血の少女のことを考えると、以前とはちょっと違った気持ちになります。最初に読んだときのような、強い拒否反応は起こりません。ぼく自身が歳をとって寛容になったということかもしれませんが、いまでは彼女がインタビューのなかで言っていることに、もう少し別のニュアンスを与えることができる気がしています。つまり彼女は彼女なりに、自分の死を諒解していたのかもしれない。両親とのあいだにも、そうした諒解は成り立っていたのかもしれない。そんなふうにも思えるのです。この場合は、キリスト教のかなり強い文脈のなかで諒解が起こっています。それは文脈の外にいる者には、うまく理解できないことなのだろうと思います。だからかつてのぼくは、彼女にたいしてどこか身勝手というか、頑迷な印象を受けたのかもしれません。
 しかし考えてみれば、誰でも自分が生きている歴史や文化や伝統のなかで死をとらえているわけです。そこから超越した死は考えられない。キリスト教圏の人たちから見ると、ぼくたちが日本的な文脈でなじんでいる死に、違和感をおぼえることもありうるでしょう。たとえばぼくの曾祖母は、ぼくが高校生のときに九十何歳かで亡くなりました。一九七〇年代半ばのことです。熱心な浄土真宗の信者で、亡くなる直前まで念仏を唱えているような人でした。いまでもおぼえていますが、死期が近づいて意識の混濁がはじまると、奇妙なことを口走るようになりました。浄土から迎えの舟が来ていて、自分にはその姿がはっきり見えるのに、なかなかそばまで来てくれない。だから一緒に声を合わせて呼んでくれと言うのです。曾祖母は自宅で亡くなりましたので、その場に居合わせた者たちは、みんな「おーい、おーい」と舟を呼ばされることになりました。
 これなども、ある文脈のなかで諒解された死と言うことができるでしょう。曾祖母が生きた時代や、彼女自身の体験や信仰などが、死を諒解するための文脈を作り上げていました。だから高校生のぼくは、曾祖母の死にあまり違和感をおぼえなかったのだと思います。それどころか、曾祖母は本当に舟に乗って浄土へ行ったのかもしれない、曾祖母にとって浄土というものは存在したのかもしれないと思えたくらいです。キューブラー・ロスが報告している少女の場合も、同じだったかもしれません。彼女や彼女の家族にとって、「神のもとへ身まかる」ということは、彼らが生きてきた文脈のなかで諒解されることだったのかもしれないと思うのです。


 ある諒解が起こるためには文脈が必要です。歴史や文化や伝統といった文脈のなかで、死についての諒解はなされます。ところが現在の日本の社会は、こうした文脈をことごとく失っている。そのことがいちばん大きな問題だと思うのです。人の死にかんしては、理解だけでは不十分です。論理や合理を超えて諒解できるものがないと、ぼくたちは自分の死も、他人の死も受け入れることができない。そうであるにもかかわらず、この社会には、死について諒解するための文脈が何もない。
 たとえば宗教の言葉によって語られる死があります。キューブラー・ロスの本に出てくる少女にとっての神様のように、あるいはぼくの曾祖母にとっての浄土のように。しかし今日、宗教の言葉はぼくたちに訴えかけてきません。少なくとも、誰にでも訴えかけてくるものではなくなっている。信じるも信じないも個人の勝手といいますか、一人一人の趣味の問題でしかない。信仰というのは理解よりも諒解に近い事柄だと思います。ぼくたちの社会のなかには、良くも悪くも、キリスト教のような特定の宗教を受け入れるための文脈がありません。だから家族が代々信仰しているとか、誰かの影響とか、何か決定的な体験をしたとか、そうした個人的な文脈の上でしか信仰に赴くことができないのだと思います。
 現代の日本の社会といいますか、日本にかぎらずグローバリゼーションと呼ばれる大きな流れは、何事にかんしても理解できることだけで済まそうとします。理解できることだけで世界を作り上げようとしてきたのが、近代であったと言ってもいいかもしれません。たとえば森林の経済的価値というのは誰でも理解することができます。しかし森の伝統的な価値といいますか、人々の精神や宗教的な感情に訴えかけてくる力といったものは、生活の一部として森に親しみ、実際にそうしたものを体験し、また必要としている人たちにしか諒解できないでしょう。だから理解できるものだけで世界を作ろうとすると、どうしても経済的価値ばかりが優先されることになる。その結果、それぞれの国や地域の歴史や文化や伝統が破壊されていくことにもなります。現在、イスラム諸国で起こっていることは、そういうことではないかと思います。これにたいする抵抗が、当然出てくるわけです。グローバル化が孕んでいる、非常に大きな問題だろうと思います。
 理解できる事柄というのは、教えることができるし、どこへでも持ち運ぶことができます。理解できる事柄とは、教えることができるものです。つまり教育が可能です。教育とは何かといえば、運搬ということだと思います。ある事柄を、A地点からB地点へ運搬する。教えるという行為が可能になるためには、教える内容が持ち運べるかたちになっていなければならない。それが知識だと思います。ある知識を教師から生徒へ運搬する。知識はどこへでも持ち運ぶことができる。したがってグローバル・スタンダードになりやすい。
 数学などが典型的ですね。数学の演算などは、どんな文脈も無視して教えることができます。現在で言えば、コンピュータ言語などがそうでしょう。ヨーロッパの文化が、ある面で優秀だと思うのは、国や地域を超えて、どこへでも持ち運べるようなスタイルをもっている点です。それを可能にしているのは、論理性と合理性だと思います。論理的、合理的にでき上がっているから、どこへ持っていっても相手に説明し、理解させることができるわけです。
 こうした特徴は、自然科学だけでなく、思想や芸術など、あらゆる分野に共通して見られるものだと思います。亡くなった作曲家の武満徹さんが、エッセーのなかで面白いことを書いておられます。武満さんが作曲されたものに、『ノヴェンバー・ステップス』という有名な作品があります。これはオーケストラの変奏曲のなかに、琵琶と尺八という日本の楽器を取り入れたものです。アメリカのオーケストラに依頼された作品だったので、初演はニューヨークで行われました。十一月の寒い季節で、ニューヨークは東京にくらべるとかなり乾燥していたらしい。そのため尺八の一つが割れてしまったというのです。琵琶も割れそうになったので、ホテルの床に水を撒いたり、ガーゼを水で濡らして楽器を包んだりと、いろいろ大変だったというご自身の体験を書き残されています。
武満さんは「持ち搬べる音と持ち搬べない音」という言い方をされています。ヨーロッパの楽器は弦楽器も管楽器も、だいたいどこへでも持って行けるようにできている。だからオーケストラは世界中を演奏旅行してまわることができるわけです。楽器だけではなく、近代の西洋音楽そのものが、非常に論理的で合理的にできています。バッハの時代に確立された平均律という考え方にしても、一オクターブを機械的に十二の音階に分けるというように、本来はアナログなものとしてある音をデジタルなものとしてとらえる。それによって正確な記譜法が可能になる。目に見えない音楽が、五線紙の上に可視化されてくるわけです。楽譜というのは関数みたいなものです。X軸が時間で、Y軸が音の高さを表す二次関数になっている。まさに数学なのです。だからオルゴールのような自動演奏が可能になる。あれは一種のプログラミングです。このような普遍的な音楽言語と、論理的、合理的な体系をもっているため、どこの国へ持っていっても、その国の人たちに西洋音楽を教えることができる。楽理としても技術としても教えることができる。日本や韓国からも、世界的な指揮者や演奏家が出てくるということなのでしょう。
 日本人は明治以降、欧米からたくさんの知識を持ち込んで、いまの日本の姿を作り上げてきました。そのなかには西洋医学も含まれます。森鷗外などがドイツへ留学して、当時の最先端の医学を持ち帰ったわけです。そこで今度は、近代的な西洋医学を身につけた日本のお医者さんが、あまり医学が普及していないところへ出かけて医療指導にあたる。そういうことが可能なのは、西洋医学が知識として、どこへでも持ち運ぶことができるものだからです。一方で、近代的な医学の普及が、その国や地域の伝統的な民間療法のようなものを駆逐し、衰退させるということもあるでしょう。
 たとえば伝染病のようなものを予防したり治療したりするために、その土地の伝統的な療法よりも、近代医学の方が効果的である、ということは言えるかもしれない。しかし死にたいする考え方、とくに死の受け止め方や受け入れ方にかんして、近代医学や生物学が提供する知見の方が、その国や地域に根差した文化や伝統よりも有効であるとは言えません。いくら医学や生物学が進歩して難病が治るようになっても、iPS細胞のようなものが再生医療への道を拓いたとしても、こうした事情は変わらないでしょう。なぜなら死はもともと医療や治療の対象ではないからです。
 医学的に、あるいは生物学的に説明される死というものは、国や地域を超えて理解可能なものです。その意味では、一つのグローバル・スタンダードと言えるでしょう。医学や生物学が扱うのは生命現象です。したがって死は生命活動の停止であり、生命システムの破壊として定義される。これが理解できる死です。その先には何もない。要するに、終焉ということになります。あらゆる関係の断絶であり、完全なる虚無である。いくら考えても、それ以外のものは出てこない。
 こうした死にたいして、ぼくたちは恐ろしいとか、悲しいとか、寂しいといった感情を抱くのだと思います。それは当然のことです。理解できる死だけて済まそうとすると、死は恐ろしく、悲しく、寂しいものでしかない。だから死のことは忘れて、当分は自分に起こらないこととして生きる。せいぜい元気なうちに楽しんでおく。そのくらいしか手立てがないわけです。これはあまり健全な生き方ではないような気がします。刹那的な生き方といいますが、一種のニヒリズムではないでしょうか。まさに夢も希望もないわけで、こんな死を目指して、人は生きることはできないと思うのです。
 善い人生といいますか、健全な生き方をしたいと思えば、どうしても医学や生物学以外の言葉で語られた死が必要になります。理解できる死にだけではなく、諒解できる死が必要なのです。そうした諒解できる死を、もはやぼくたちの社会はもちえなくなっています。この日本の社会のどこにも、諒解される死というものがなくなっている。そのことがぼくたちの心を殺伐とさせている。一人の人間が生きて死ぬといったことを考える際に、何か寄る辺のない、心細い感じを抱かせることになっているのではないでしょうか。
 さらに言えば、ぼくたちの社会に諒解できる死がないことは、現在、あらゆる場面において見られるモラルハザードのようなものを含めて、日本人を精神的に荒廃させていると思います。なぜなら日本人は伝統的に、死の諒解をとおして倫理観のようなものを作り上げてきたからです。


 では近代以前の日本の社会において、死はどのようなものとして諒解されていたのでしょうか。簡単に言うと、先祖信仰と自然崇拝を二つの柱として諒解されていました。柳田國男の言い方を借りれば、亡くなった人の魂は近くの山の峰などにとどまり、先祖として子々孫々の暮しを見守っていく。そして最終的には、村の自然と融合して、共同体の神となっていくというわけです。
 こうした死の諒解が起こるためには、少なくとも二つの文脈が必要です。一つは「先祖」で、もう一つは「自然」です。先祖信仰を支えてきたのは、伝統的な「家」でした。また自然崇拝を支えてきたのは、村落共同体であったと言えるでしょう。先祖信仰にしても自然崇拝にしても、知識や情報として持ち運ぶことはできません。つまり教育は不可能なのです。学校などで教えるというわけにはいかない。どうしても伝統的な「家」があり、村落共同体があり、まわりに豊かな自然があり、人と人のつながりがあり、人間と自然との頻繁な交流があり……といった環境のなかでしか受け継がれていかない。もはや日本の社会にはないものばかりです。核家族化とか都市化とか市場経済の浸透とか、様々な原因があるでしょう。いずれにしても、いまの日本の社会が、死を諒解するための環境や道具立てを失ってしまっていることは確かです。その結果、自分の死も他者の死も、うまく受け入れることができなくなっている。
 別の言い方をすると、死の問題にかんしては、誰もが自分だけで対処しなければならなくなっている、ということだと思います。死の意味は個人が見つけなければならないものになっている。その意味では、どのような死であれ、すべて孤独死であると言っていいと思います。たとえ家族に見守られながら亡くなっても、孤独な個人の死であることには変わりありません。そもそも葬式をどうするかとか、死んだあとはどうこうしてくれとか、一昔前までは個人が考えることではなかったのです。考える必要も余地もなかった。いまは葬式にしても遺骨の処理にしても、生前にアレンジする人が多くなってきています。そのくらい死も死後も、一人一人の恣意にゆだねられるものになっている。つまり社会的に共有される文脈の上にはないのです。
 だからといって、現在の日本の社会を昔の状態に戻すことはできません。伝統的な「家」や村落共同体を復活させることは、現実的に不可能でしょう。先祖伝来の自然を取り戻すことも難しい。死が孤独な個人のものになってしまっていることは、ある意味、どうしようもない。近代化の代償というか、歴史の必然みたいなものだと思います。そこから考えるしかない。孤独な個人の死に、どんな意味を与えることができるのか。一人一人において、そのことが考えられなければならないと思います。
 つまりぼくたちは生涯を通して、自分自身の死を諒解するための文脈をつくっているとも言えます。あらかじめ与えられている答えは何もないわけです。自分の人生を、自分なりに最後まで生きてみて答えを出すしかない。ぼく自身の理想を言えば、自分の死に「出発」というニュアンスを与えることができればいいと思っています。何が出発するのか? どこへ出発するのか? そんなことは誰にもわからないし、わかったふりをしている人は、みんなインチキということになります。死にかんしてそこまで言うことは、明らかに踏み外しなのです。
 踏み外しなく言えることは、ぼくたちは生涯を通して、自分自死の死を定義しようとしているということです。そのような死に、「出発」という含みをもたらすことができればいいと思います。家族や子どもたちとの別れに際して、これから新しい何かがはじまりそうな気がするとか、そんな余韻を残すことができればいいのではないかと思っています。

参考文献
内山節『清浄なる精神』(信濃毎日新聞社)
E・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』(鈴木晶訳・読売新聞社)
武満徹「東の音・西の音」(『遠い呼び声の彼方へ』所収・新潮社)

2011.11.13 九州大学医学部附属病院百年講堂