> 2012年10月のブログ

猫々通信⑪

『愛について、なお語るべきこと』について

 このたび『愛について、なお語るべきこと』という小説を上梓しました。いい歳をして、なぜ「愛」なのか。もっと他に語ることはないのか。たしかに。ぼくも53なわけだし、そろそろ断捨離の境地であるとか、前立腺肥大の問題とか、仏像を見てまわる話とか……について語るのがふさわしいお年頃。しかし今回、なぜかまたもや「愛」なのです。
 どういう話か。ひとことで言うと、人類絶滅と家庭崩壊の話です。つまり人類が絶滅しかけている近未来の話と、絶滅の予兆へ向かう現在の話が、奇数章と偶数章で交互に物語られるという構成をとっており、全体としてなんとなく二つの物語がゆるやかに結び付く、という作品です。
 そろそろ人間は、発展することではなく、衰退することを考えるべき段階に来ているのではないか。近年、そのような思いが、ぼくのなかでは非常に強いのです。いかに平和に、穏やかに衰退していくか。悲観的な未来のなかに、どのような希望や可能性を見出していくか。
 二十一世紀になってから、たとえば9.11のテロが起こり、新型インフルエンザのパンデミックがあり、このたびの福島の原発事故があり……というように、人間の物理的消滅を含めた世界の破局が現実味を帯びてきました。飢餓や戦争に加えて、テロやウイルスや放射能といったものによって、これまでに人類が経験したこともない大量死の時代を、ぼくたちは迎えつつあるのではないか。そうした予感のなかで、あえて「愛」という言葉を使ってみたいと思いました。
 これまで愛は、プライベートな文脈やロマンチックな文脈で語られてきました。しかしいまや人類的な死や、世界の破局といったヴィジョンのなかで、愛を語ることの必然性が生まれてきているように思います。つまり自分や愛する者の個人的な死と、人間の死、人類的な死とのあいだに、あまりタイムラグがなくなった。二つがオーバーラップするというか、同じ一つの視野に入ってきてしまう状況が生じている、ということだと思います。おそらく『聖書』のなかでイエスが語ったような愛について、ぼくたちは語る必要があるのです。とても困難なことではありますが、今度の作品のなかで、そうした意志や姿勢を示したいと思いました。
 またこの小説は、「本当の名前」をめぐる物語でもあります。現実の社会のなかで、ぼくたちは一人一人が消費者であったり、有権者であったり、納税者であったり、高齢者であったり、生徒や患者であったり、というように一義的な人格として、いろいろな機能や役割を果たしています。しかし一方で、お互いを道具的に規定し合う関係の外に出たいという思いがあります。だから家族とか恋人とか、せめて親密な者とのあいだでは、契約的な要素や、権利・義務といった法的な要素を解除したいと願うわけです。こうした欲望や指向性が、おそらく「愛」ということで、ぼくは小説のなかで「本当の名前」を呼ぶ、という書き方をしています。ですから「本当の名前」をめぐる物語は、「愛」の関係を梃子にして、この世界の外に出ようとする物語でもあります。
 さらに言えば、「本当の名前」とは、いまだこの世界に出現していない、しかし出現することが強く望まれている、新しい言葉を暗示しています。おそらく「愛」にかわる言葉の出現が待たれているのです。山中ファクターのように、その言葉を導入することによって、人間が多様な可能性へ向けて初期化されるような言葉が。『愛について、なお語るべきこと』というタイトルには、そういう思いも込めたつもりです。この思いが、一人でも多くの人に伝わることを願っています。