> 2012年1月のブログ

あの本、この本⑦

 震災や原発事故のような大きな出来事が起こると、それを題材に何か書きたいと思うのは、小説家の性(さが)みたいなものだ。一方で、それはとても危ういことでもある。たとえば広島・長崎に原爆が投下されたとき、当時の文学者たちがこぞって戦争の悲惨さをテーマに作品を書いていたら、後の時代からは文学の自殺行為と見えるだろう。
 言葉が変わらなければ世界は、そして人間は変わらない。最初に変わり得るのは文学の言葉だ、とぼくは思っている。では今回の震災や原発事故で、文学の言葉は、引いては日本語は変わるだろうか。たぶん変わらないと思う。語弊のある言い方をするなら、この程度のことで変わるなら、とっくの昔に変わっていただろう。
 日本語が変わるということは、日本の社会と日本人が変わることだ。だが百万単位の犠牲者を出した、あの「悲惨な戦争」をもってしても、日本の社会も日本人も変わらなかった。明治末期に漱石などが憂慮したとおりの行程を、日本は歩んできたし、いまも歩みつづけている。このたびの震災と原発事故にしても同じだ。よほど自覚的に、長い時間をかけて、ぼくたちが懸命に追い求めつづけないかぎり、新しい言葉は生まれないだろう。そして言葉が変わらなければ、何も変わらない。なぜならぼくたちは言葉によって、一人一人の「自己」を作り上げているからだ。悲観しているわけではないが、楽観的になる要素は何もない。
 文学にかぎらず、震災・原発事故のあとに書かれたもののほとんどが、ぼくには既存の言葉で現実をなぞっただけのように見える。新しい言葉など、どこにも見当たらないし、これから現れる兆しも見えない。ただ昨日までと同じことが、今日もつづいているというだけだ。すぐに出てくるはずもないことはわかっているが、多くの作家たちが紡ぎ出す「震災後の文学」に、ぼくは強い苛立ちを感じている。そんなに手軽に書いてしまっていいのか。かといって、神妙に恐縮していればいいというものでもない。文学者が言葉を自粛してどうするのだ。
 みんなどこか高をくくっているように見える。自分が書くものにたいして、「こんなものさ」と割り切っているように見える。自分の言葉を信じることができなければ、文学などやってもむなしいだけだ。だいいち、それでは文学にならないだろう。繰り返すが、言葉が変わるとすれば、最初の兆しは文学にあらわれると、ぼくはかたく信じている。そのためのフィクションではないか。誇大妄想でも世迷い言でも、とりあえず表現できるのが文学の強みだ。いまこそ文学ははじけなければならない。そのはじけ方が、とても難しい。

 白石一文さんの『幻影の星』は、彼にとっては震災後の第一作にあたる。どんなものを書いてくるか、それが楽しみでもあり、ぼくにとっては最大の関心事だった。
 この作品のなかで、ぼくがいちばん面白かったのは、作中人物が展開する「イリュージョン」という考え方だ。あらゆる現実が儚い幻に見える。それは震災後にぼくたちをとらえた、共通の感覚ではないだろうか。人も街も、かくも呆気なく消滅してしまう。人間の生命とは幻みたいなものだ。何千年か何百年かのスケールで確実に起こる巨大な地震。時間のスケールを上げていくほど、すべてが「イリュージョン」と感じられる。一万年、十万年単位で見れば、人間も人間の文明も幻みたいなものだ。ニヒリズムにも似た感覚を、震災は間違いなく、ぼくたちのなかに残していったのだと思う。
 そして原発事故が起こった。あの事故によって、ぼくたちはようやく気づいたのではないだろうか。自分たちの暮しが、人間の文明が、いかに深く「イリュージョン」を取り込んでいるかということに。使用済み核燃料の半減期の問題を考えてもわかるように、原子力とは本来、数十万年単位のスケールで考えられるべき技術なのである。人間も人間の文明も、それに耐えられるだけの長大な展望を持ち得ない。その歪を体現した技術が原子力である。原子力を選択するということは、人間が潜在的に、自分たちの作り出した文明を「イリュージョン」とみなして生きるということなのである。
 これは善悪の問題ではない。原理的な問題である。したがって不可避的である。科学的な思考は不可避的に、人間の文明自体を「イリュージョン」とみなさざるを得ない場所にまで、ぼくたちを連れて行ってしまう。だから科学が可能にした技術を、人間の文明のなかへ持ち込むことには慎重であらねばならない、という主張には一理ある。しかし、それと原子力を否定することは、また別の問題である。人間が人間でありつづけるかぎり、原子力を否定することはできない。それは人間を否定することであるからだ。
 原子力を超えるためには、「人間」を超えなければならない。これまでの人間の様式を変えなければならない。「自然エネルギーへの転換」などで超えられるものでは、けっしてない。なぜなら原子力こそ、究極の自然エネルギーであるからだ。風力も地熱も太陽光も、手加減された原子力に過ぎない。原理的には何も違わない。だから、これらの「自然再生エネルギー」は、市場経済という枠組みのなかでしか普及していかない。
 ぼくたちが変えなければならないのは、まさに「市場経済」という枠組みなのである。それはエコロジーや「自然との共生」によって変わるものではありえない。だいいちエコロジーや「自然との共生」といった発想そのものが、市場経済の恩恵を最大限に受けている、ごく一部の先進国の富裕層のなかでしか通用しないではないか。もっと腰を据えて考えよう。思いつきをいくら並べてもしょうがない。そんなことでは、ぼくたちは「自然エネルギー」に再び足をすくわれてしまうだろう。

 白石さんもぼくも、言葉を扱うことを仕事にしている。小説にかぎらず、言葉を扱う者がいちばんやってはならないことは、誰かの代理をすることである。被害者でない者が、被害者の代理をしてはならない。被害者を代理して、その心情を代弁してはならない。そうした表現は、かならず抑圧として機能する。現在、日本の社会を流通している言葉のほとんどは、この類のものだ。新聞、テレビ、その他のジャーナリズムに溢れているのは、ほぼ例外なく誰かの代理として機能している言葉である。それはぼくたちの生を抑圧する。同時に、ぼくたちに他者の苦難を「消費」することを強いる。これこそが、現在の日本の社会に蔓延している「悪」だと思う。
 ぼくにとって白石さんが信頼できる書き手でありつづけているのは、彼がけっして誰の代理もしないからである。自分が当事者として考え、感じ、行動することだけが、彼の作品を作り上げている。だから作品のなかで取り上げられるテーマが、人間の欲望や裏切りや猜疑といった暗いものであっても、不思議と嫌な気持ちにならずに、最後まで共感をもって読めるのだ。それはまた彼の作品をモラリスティックなものにしている。当事者として扱える領域を踏み外すところから、文学におけるあらゆる非倫理的なものが生まれてくる。
 ぼくたちの人生には、ときに大きな苦難が降りかかる。だが、その苦難が、その人の人生のすべてということはありえない。もしそうなってしまったら、生きていくことができないだろう。だから戦争であれ自然災害であれ、それがすべてであるかのような描き方をしてある文学作品は、例外なしに悪いものである。生を否定するものであり、人が生きることに呪いをかけるものだ。仮に当事者であっても、いや当事者であればこそ、そんな描き方はしないし、またできないはずなのだ。
 この作品でも震災が扱われているが、被害者に過剰な感情移入をするようなことは、慎重に避けられている。東京に暮す普通のサラリーマンが何を考え、どんなことを感じ、いかなる行動を起こしたか。すなわち作者が当事者として描ける範囲内のことに限定されている。ぼくたちが震災後の文学として読みたいのは、そういうものではないだろうか。被害者の心情は、本人でなければわからない。当事者以外の者がわかろうとする必要はないし、また本当は、わかってはいけないことかもしれない。
 主人公の「熊沢武夫」が考えるのは、あくまで自分が死ぬことであり、彼が感じるのは、自分のところも放射能に汚染されているのではないかという不安であり、彼がしていることは、恋人の「堀江さん」との性器に射精しないセックスだ。そして彼は自分の場所で、津波で死んだ人たちの最期に思いを至らせる。そのようにして遠い震災の死者たちは、震災後を生きている者たちの生を、着実に浸蝕しつつあるのかもしれない。
 たとえば作者は、熊沢につぎのように述懐させている。

 「地面もゆらゆら、人間もゆらゆら、社会もゆらゆら。
 それならば、時間だってゆらゆらしても不思議ではないだろう。
 最近の僕は、自らに降りかかっている説明不能な現象をそんなふうに受け止めるようになっている。この世界には何一つ確かなものはない。人の運命や生死も、それぞれの心も、集合的な意識や無意識も、そして自然現象全般もちっとも盤石ではない。どれもが曖昧模糊としていて不完全、不安定で、かなりの部分で行き当たりばったりなのである。」

 さらに「僕たちは、あの大地震と大津波の光景を目の当たりにすることで、死の恐怖や絶望ではなく、実際は死の永遠性を垣間見たのである」という熊沢の述懐は、作者の実感でもあるだろう。ぼくたちは誰もが、「イリュージョン」としての現実を生きている。いや、正確には、それは「イリュージョン」でも「現実」でもない。いずれとも同定できないものだ。気まぐれに反転を繰り返す「現実」と「イリュージョン」のはざま浮かびあがる自己は、ときに「レプリカ」のように感じられる。これはぼくたちが震災後に抱く感覚として、もっとも正当で、また批評性に富んだものだと思う。この感覚から、いかに生を再建していくかが、震災を「体験」したぼくたちの、当事者としての課題ではないだろうか。
 父親の作った借財のために、関谷という男にカネで飼われ、「こんな現実はたくさんだ」と感じながら生きる「滝井るり子」も、やはり現実と幻のあいだを漂うように生きている。そんな彼女と熊沢は出会う。いや、小学生時代の同級生である二人は、ゆらめく時間の間隙に落ち込むようにして「再会」する。圧倒的な「死の永遠性」のなかで、ぼくたちの生はどのようなものでありうるか。自分の関与しえないところで唐突にはじまった生が、やはり唐突に終わることを、いかに諒解すればいいのか。
 踏み外しぎりぎりところで、作者は死の永遠性のなかで有限な生を生きることの意味をとらえようとしている。たぶん白石さんには、見えているものがあるのだろう。それを表現するための言葉は、誰もが無償のように使っている日本語でしかない。過去と現在と未来をめぐる物語の結構は、彼が幻視しているものと、それを言葉として表現することのあいだの、気の遠くなるような距離から生まれてきたものに思える。