> 2011年12月のブログ

猫々通信⑦

 ある出版社が、ぼくも以前に寄稿したことのあるご縁で、オーディオ・ビジュアル雑誌を送ってきてくれる。毎号、読者ご自慢のホームシアターがカラー写真で紹介してあり、微笑ましい。大型スクリーンにハイエンドのオーディオ機器、家具などのファニチャーも高価そうだ。でも、こうしたお楽しみの空間も、ひとたび原発事故が起これば廃墟になる。チェルノブイリ事故の放射線基準値によれば、日本中のすべての場所が、潜在的に強制避難区域であると言っていい。
 もちろん毎日、こんなことを気に病んで暮していても楽しくないし、普段はあまり考えないようにしているが、頭の片隅には、拭い去れない不安として常にそのことがある。ある種のニヒリズムと言っていいだろう。何をやっても心から楽しめない自分がいる。この暮し、この現実は、砂上の楼閣にも等しいもので、自然の気まぐれによって、いつだっていとも簡単に崩壊してしまう。それがぼくたちの生きている世界のありようだ。あらためて、3.11を境にして「世界」の意味が変わってしまったのだなと思う。
 今年の5月まで、ぼくは『彼女の本当の名前』という小説をNTTドコモから配信していた。この小説の舞台は、人類が滅亡しかけている近未来という設定である。文明が機能不全に陥り、すべてが野生に戻りつつある地球で、本来の自然の姿を目の当たりにして、原始的な生命力に目覚めながら生きていく少年と少女の話である。小説のなかではあからさまに言及されていないが、大量死の原因は新型のウイルスであることが暗示されている。核兵器に象徴される、人間が生み出してしまった科学文明に、全地球的な意志が危機感を抱き、いわば自己防衛本能から、文明が機能不全に陥るレベルにまで人間の数を減らしてしまう、というのが小説の隠れたシナリオだ。
 この話を書き上げようとしていたころ、東北の震災と原発事故が起こった。あの事故のあと、自分の書いてきたこと、自分の考えていたことが現実になった、という声をよく聞いた。それは多くの人たちが漠然と、同じ不安、同じ危惧を抱いていたということだろう。何か地球規模で忌まわしいことが起こるのではないかという不安、人間が終わりかけているという予感めいたものを、半ば無意識のうちに共有していたということだろう。現実に9.11があり、近い将来に新型インフルエンザのパンデミックが確実視されている。そんななかで、ぼくたちが未来についてもっているヴィジョンの一つが、大量死をともなう地球規模の災厄であることは間違いない。
 長いあいだ、戦争は人類にとって最大の災厄でありつづけてきた。20世紀は戦争の世紀とも言われる。では21世紀は? おそらく人間が自らの作り出したものと戦う世紀になるだろう。福島の事故が、ぼくたちの目の前に付きつけたのは、そうした暗い予感ではないだろうか。事故は収束のめどさえ立っていない。日本が海外へ輸出しようとしている原発は、近い将来、同様の惨事を引き起こす可能性が高い。やがて地球は放射能で汚染され、広い地域が人の住めない状態になってしまう。被曝と食糧不足によって多くの人間が死ぬ。そうした未来が、かなりリアルにぼくたちの視野のなかに入ってきている。
 いつかぼくたちは、戦争を懐かしむようになるかもしれない。人間同士が殺し合っていた時代を、牧歌的と感じるときが来るのかもしれない。あのころはよかった。敵は同じ人間だったのだから。いまや敵は目に見えない。どこにいて、いつ、どのような攻撃を仕掛けてくるのかもわからない。そんな相手と、果てしなく戦っていかなければならない。
 人類の歴史が、①自然が人間の脅威であった段階、②人間が人間の脅威になった時代を経てきたとすれば、福島の事故は、③人間の生み出したものが人間の脅威になっている、という新たな段階を象徴するものと言えるだろう。放射能という、自分たちの力でコントロールできないもの、対処不可能なものを、人間は作り出してしまった。そのことが人類にとって、最大の脅威になっている。パンデミックが懸念されているウイルスにしても、たんなる突然変異だけなら大きな脅威にはならない。人間の文明との接点において破滅的なものになる、という点では、やはり人間が生み出したものと言えるだろう。
 このような未来を、人間は回避することができるだろうか。ぼくにはかなり悲観的な予想しか立たない。大量死は避けることができないのではないか。そうなるまで、世界の国々が連帯して一つの方向へ向かうことはありえないのではないか。いや、大量に人間が死につづけても、資本主義経済のもとで、人間は国家という暴力装置を通して、飽くなき争奪戦をつづけるのではないか。なぜなら国家や貨幣経済という、いわば外化された主体には、感情も意志もないからだ。
 悲観的になろうと楽観的になろうと、人類の未来は暗い。明るい要素など、何一つない。この絶望的な状況のなかで、どのような希望や可能性を見出せるか。いずれ人間は終わるにしても、終わるまでのあいだ、ぼくたちは生きつづけなければならない。生きつづけるためには、希望が必要だ。その希望は、ぼくたち自身が作り出すしかない。
 地球上に生命が誕生して40億年、これを1日24時間に置き換えると、人類が誕生してからの時間は一秒にも満たない。ほんの一瞬と言っていい。同じように考えるなら、人類が滅亡したあとも、ほんの一瞬で地球は元の姿を取り戻すだろう。このことは、ぼくたちにとって大きな慰めであり、絶望と引き換えの希望であると言っていい。
 本当の希望は、ぼくたちは一人一人が「最後の人間」でありうるということだ。このことも半分は、絶望である。なぜなら、ぼくたちのあとには何も残らないからだ。ぼくたちが生前に「かたち」として生み出したものは、文字も思想も観念も含めて、何も残らない。もちろん神も信仰も残らない。弔ってくれる者も、記憶してくれる者もいない。そのような者として、ぼくたちは生きなければならない。そこに希望が生まれてくる。
 いまは余裕がないので結論だけを述べる。「最後の人間」として生きるということは、その者が「善=価値」以外のものではありえないということだ。それ以外の存在の仕方は考えられない。何ものへも外化せずに、その者自体が「善=価値」であるしかないような生き方。それが一人一人の死を定義し、死に「出発」というニュアンスをもたらす。これがぼくたちの手にしている最後の希望だ。
 以上のことについては、来年中に『「出発」としての死』という本のなかで詳しく書くつもりだ。すでに書き終えている『彼女の本当の名前』は、ただいま有料メルマガ「まぐまぐ!」に連載中の『愛についてなお語るべきこと』と合体させて、来年中の刊行をめざす。そのあと(たぶん再来年)には、『誰でもないもの』というタイトルで「最後の人間」について書こうと思っている。