> 2012年9月のブログ

恋愛詩の起源


 今日は『万葉集』のお話をしたいと思います。これは日本に現存する文学的な作品としては、もっとも古いものの一つで、主に「短歌」と呼ばれる三十一音の短い詩が集められています。短歌のほかに長歌と呼ばれる、もう少し長い詩も収録されていますが、この形式はほとんど『万葉集』のなかにだけ見られるもので、後代に継承されて発展することはありませんでした。それにたいして短歌の方は、現代でもプロかアマチュアかにかかわらず大勢の実作者がいます。日本でいちばん親しまれている文学ジャンルと言ってもいいでしょう。
 収録されている作品数は、短歌と長歌をあわせて四五〇〇余りにのぼります。成立は西暦でいうと七〇〇年代の後半と考えられています。千年以上も昔の作品なのに、現代のぼくたちが読んでもある程度は理解できる、それなりに味わうことができる、楽しむことができる、というのは不思議な気もします。キリスト教の文化圏における『聖書』ではないけれど、それに近いものがあるのかもしれません。日本人によって千年以上にわたり読み継がれてきた書物、しかも庶民のレベルで親しまれてきた書物としては、『万葉集』以外には考えられません。
 おそらく五七五七七という短歌の形式が大きく寄与しているのだと思われます。この韻律というか、言葉のリズムが、われわれ日本人にはとても心地よく感じられるのです。また日本語というのは、五音、七音という音節に馴染むようになっている。日本語自体が、こうした音のリズムとともに発達してきたという側面をもっているのかもしれません。とくに感情表現に赴くとき、このリズムを採用すると不思議にうまくいく、ということを多くの日本人は体験的に知っています。こうした事情もあって、現代でも短歌の愛好者が生まれているのだと思います。
 それにもかかわらずというか、いま申し上げたことと矛盾するようですが、『万葉集』に収録されている歌の意味は、厳密に言うと、ぼくらにはよくわからないのです。専門の研究者でないと、正確な意味はたどれないと言っていいと思います。専門家でも持て余す歌はたくさんありますし、また彼らの解釈がすべて正しいとも限らない。しかし正確な意味はわからなくても、なんとなく雰囲気というか、イメージというか、歌が湛えている抒情みたいなものは、日本人であれば誰でも感受できるようになっている。それは短歌が、明快な韻律をもった定型詩であるということが大きな理由だと思います。つまり言葉のリズムによって読めてしまう。わかった気になることができるわけです。
 先ほども申しましたように、『万葉集』が成立したのは八世紀の後半です。この時代の日本について、少しお話しておきたいと思います。朝鮮半島の百済から日本に仏教が伝来したのが、一応、五三八年ということになっています。もちろん仏教だけでなく、儒教や暦法、医術、易をはじめとする種々の卜占法なども入ってきます。仏教経典や漢籍とともに、本格的な文字文化が日本に入ってきたわけです。漢字そのものは、もっと早く入ってきていたのでしょうが、書記というかたちで文字が使われるようになったのは、この時代からだと思われます。
 最初はもっぱら渡来系氏族の手で文字は記されていました。もちろん彼らは漢文をそのまま記していました。文法も、漢字の読み方や書き方も、中国式であったわけです。やがて漢字の音だけを利用して、古代の大和ことばを表記するということがはじまります。これが万葉仮名と呼ばれるものです。たとえば「こひ(恋)」は「古比」「古非」「古飛」「故非」「孤悲」などと表記されました。「こころ(心)」は「己己呂」「己許呂」「許己呂」「許許呂」といった感じです。『万葉集』の冒頭に出てくる、額田王の有名な熟田津の歌があります。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎ出でな(一・八)

 これは後代の人たちが、漢字仮名交じりの表記に直してくれたものです。オリジナルの『万葉集』では、「熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜」となっています まさに暗号といった感じですね。送信したメールが文字化けしたようなものです。こんな調子で、すべての歌が表記されています。長歌も含めて四五〇〇首! しかも「題詞」と呼ばれる、いつ誰がどんな状況でつくった歌か、という但し書きまでついている。これらの内容が、ほとんど意味不明の漢字の羅列によって表記される、といった恐ろしい世界が展開しているわけです。とても普通の人が読める代物ではありません。もちろんぼくらも読めませんが、昔の人も読めなかったらしい。
 ただ、『万葉集』が大切な書物であるという認識は共有されていました。なにしろ歴代の天皇の歌をおさめているわけですからね。いわば神聖な書物であったわけです。そこで『万葉集』の解読作業がはじまります。村上天皇という人の勅令だったそうです。十世紀中ごろ、平安時代末期のことです。『万葉集』の成立が八世紀中ごろとして、二世紀後には、すでに当時の人にもわからないものになっていたということです。
 これは当然です。漢字が使ってあるからといって、正当な漢語文であるわけではない。漢字本来の読み方は、ほとんど無視されている。漢字を無理やり日本語化してしまったというか、もとからあった日本語、大和ことばを、主に漢字の音だけを借用して表記していったわけですから、かなり強引なやり方と言っていい。先ほどの熟田津の歌にしても、「熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜」を、どう読めば五七五七七になるのか。さらにこの歌のなかには、「世武登」や「可奈比沼」といった万葉仮名による表記に混じって、「船」「乗」「月」「潮」のように、本来の漢字の意味を大和ことばにあてはめたもの、つまり現在の訓にあたるようなものが見られます。ここには発想としてすでに、漢字を音訓両用で使い、文字表記は漢字とかな文字を用いるという、その後の日本語の方向性があらわれています。こうした複雑な表記法が、解読を一層困難にしていたと言えるでしょう。
 とにかくこのようにして、漢字で表記されたものを日本の大和ことばに戻してやる、という気の遠くなるような作業がはじまりました。この作業は平安時代だけでは終わらずに、江戸時代の国学者たち、契沖、賀茂真淵、本居宣長などによっても引き継がれます。また明治以降も、斎藤茂吉、折口信夫、佐佐木信綱といった人たちが新たな解釈や解説を施しています。それでも未解決な部分は残っていて、現代もなお解読作業はつづいている。まさに民族をあげての一大事業です。それほど『万葉集』は謎に満ちた、難解な書物であるのです。


 それでは少し中身に入っていきましょう。『万葉集』という書物は一巻から二十巻までありまして、様々なタイプの歌がおさめられています。天皇や宮中の貴族が作った歌もあれば、宮廷詩人のようなプロの作者によるものもあります。また一般の庶民や農民の歌が多くおさめられていることも大きな特徴です。ジャンル的には、儀礼的なもの、叙事詩的なもの、個人の感情をうたった抒情的なもの、自然描写に重きを置いた叙景的なものまで、非常に多岐にわたります。
 七世紀中ごろから八世紀中ごろにかけての、およそ百年間につくられた歌がおさめられている、というのが定説のようです。この前後の日本は、激動の時代といってもいいくらい、変化の激しい時期にあたっています。それは先ほども申しましたように、中国から様々な文化が流入してきたからです。このため日本の社会は、無文字の状態から漢字とかな文字による独自の表記法の確立まで、また氏族共同体や部族国家の段階から律令制のもとでの中央集権的な朝廷王権の誕生まで、きわめて短い時間にめまぐるしい展開をとげることになりました。こうした事情が、『万葉集』に一種独特の活気というか、ダイナミズムを与えていると考えられます。
 一方で、同じ事情が、『万葉集』を複雑なものにしています。百年ほどのあいだにつくられた歌のなかでも、初期のものには古い氏族共同体の伝統的な習俗などがうたい込まれており、時代が下って新しいものには、平安期の貴族階級の生活感情や、中国文化の影響を受けた美意識、価値観などが色濃く反映しているからです。こうした重層的な構造も、『万葉集』の解釈を難しくしている一因になっています。
 ここでは主に、折口信夫(一八八七~一九五三)と白川静(一九一〇~二〇〇六)という二人の研究者が遺した仕事に依拠しながら話を進めていきたいと思います。彼らに共通していることは、ともに『万葉集』がとどめている古代、すなわち仏教を中心とした中国の文化が伝来する以前の、古来の日本的な伝統や習俗、おそらく縄文期にまで連なるであろう古い歴史の層に着目した点です。そこにはアニミズムといいますか、霊的な存在への信仰を中心に営まれる、古代の人々の生活がありました。彼らの心の動きを探るなかで、『万葉集』の歌は解釈されなければならない。逆に言えば、近代的な感覚でこれらの歌を理解することはできない。現代の常識で解釈しようとすれば、かならず間違うということです。
 こうした立場からすると、『万葉集』におさめられた歌のなかで、もっとも古い時代に作られたのは、呪歌の系統に属するものということになります。呪歌というのは説明が難しいのですが、歌を詠むことが、神々や土地の精霊、死者の魂といった、目に見えないものに働きかけるといった、儀式的・儀礼的な意味をもっていた時代がありました。そうした伝統を踏まえてつくられた歌、というふうに考えてください。彼らにとって歌を詠むことは、個人的な表現行為というよりは、一つの共同体において執り行われる神事に近いものでした。
 白川静が取り上げている例を見てみましょう。

 阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 寝も宿らめやも いにしへおもふに(一・四六)
 真草刈る 荒野にはあれど もみち葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し(一・四七)
 東の 野のかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡きぬ(一・四八)
 日並の 皇子の尊の 馬並めて 御猟立たしし 時は来向ふ(一・四九)

 軽皇子が安騎野に冬猟に出かけたとき、柿本人麻呂がつくったとされる歌です。これら四首の短歌の前には、「軽皇子の安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」と題された長歌一首がおかれているのですが、ここでは省略します。引用した短歌を読むだけでも、狩猟の様子はわかります。まず狩猟が催される場所に到着した場面。昔ここで狩りをした人たちのことが思い出されて寝つかれないという歌にはじまり、翌朝の情景へとつづき、いよいよ狩りがはじまるときの高揚した気分までが、時系列的に歌われています。意味だけをたどっていけば、たんに冬の猟遊びを詠んだだけの歌です。
 白川による解釈は、以下のようなものです。この安騎野の冬猟がおこなわれたのは六九三年で、軽皇子(のちの文武天皇)は十一歳でした。当時の天皇は持統で、持統は天武の妃、日並皇子(草壁皇子)の母、軽皇子の祖母にあたります。天武の崩御が六八六年で、当然、持統は息子の日並皇子を即位させようと考える。それまで地位を保全するため、自らが女帝の地位につきます。ところが日並皇子は皇太子にまでなりながら、天武が崩じた翌年に、即位をまたずして亡くなってしまいます。そこで持統は孫である軽皇子に皇統を継承させようとする。
 こうした意図のもと、持統の手によって周到に画策されたのが、安騎野の冬猟だったというのです。猟がおこなわれた安騎野は、父である日並皇子の、かつての猟地でした。その父は、天皇霊の保持者たる資格をもちながら急逝してしまった。そこで父が狩猟を楽しんだ地へ赴き、日並皇子が保持していた天皇霊を呼び起こし、それと合一することで、天皇霊を継承しようとしたのです。
 先の人麻呂の歌に詠まれている「旅宿り」や「旅寝」は、その地霊に接することであり、かつてそこで行われたことを復活させるための儀礼的・呪的行為でした。「うち靡き(うちなびき)」も「古念ふ(いにしへおもふ)」も、その霊を呼び起こし、接近しようとする心的営みであり、祈願を成就するための儀式でした。このような解釈に立つなら、人麻呂のつくった冬猟歌は完全に公的・儀礼的なものであり、そこには作者の個人的な感情など入り込む余地もないと考えなければなりません。
 呪歌ないし呪的な歌は、他にも様々な目的のためにつくられました。たとえばある土地を通り過ぎるときには、その地霊に挨拶をするのがならわしとされていました。これには旅の安全を祈願する意味もあったでしょう。やはり白川がとりあげている例で見てみましょう。

 稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 可古の島見ゆ(三・二五三)
 天ざかる 夷の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ(三・二五五)
 武庫の海の にはよくあらし 漁する 海人の釣船 波の上ゆ見ゆ(一五・三六〇九)
 古の 賢しき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れど飽かぬかも(九・一七二五)

 いずれも人麻呂の作による旅の歌です。旅といっても、後代の芭蕉たちのような個人的動機による旅ではなく、国巡りと呼ばれる公的な視察、ないしは都と任地とのあいだの行き来といったものだったと考えられます。その際には、通過する土地の景観にたいして歌を献ずるというのが古代のならわしでした。これは地霊への挨拶であり、表敬の意味合いが込められていました。あるいは三首目の歌のように、海人が釣をする穏やかな海をほめることで、実際に海が静まるという呪的効果が期待されたのかもしれません。四首目の「見れど飽かぬ」になると、より積極的な賞賛ということになるでしょうか。いずれにせよ、たんに風景を描写している叙景の歌ではなかったと考えられます。
 古代の日本には、「国見」という農耕儀式がありました。天皇や地方の長が高いところに登って、国の地勢や景色、人々の生活の様子などを望み見ることをいいます。それによって一年の農事をはじめるにあたり、秋の豊穣を予祝したのです。この場合の「見」にも、明らかに呪的な機能が期待されています。白川によると、「みる」は視覚的な意味だけではなく、自然の景観のなかにたゆたう豊かな生命力を自己のうちに取り込むというような、対象との霊的な交通や交渉関係を含みもつ言葉として使われていました。とくに人麻呂の歌に見られるように、「みゆ」という受け身の形でうたいおさめるときには、呪語としての意味合いが強かったと白川は言います。
 このような「見ゆ」や「見れど飽かぬ」の用語法は、『万葉集』のなかでも初期の歌に限られたもので、時代が下るにつれて、歌に込められた呪的意識は希薄化していきます。それは律令制的な秩序の安定とともに、見知らぬ土地を通過することの不安や緊張が和らいできたせいかもしれません。国内が平定されてくれば、実際の旅の危険性も小さくなったことでしょう。こうした事情にともない、自然の景観は神秘性を失い、「みる」という行為からは宗教的性格が消えていきます。人々のなかから、古代的な自然観や自然感情は失われていきます。そして自然の景観を美的対象として認識し、受容する観照的な態度とともに、叙景的な抒情性をもった歌が生まれてきたと考えられるのです。


 『万葉集』におさめられた歌を、鎮魂法との関係で読み解いていくことの重要性を唱えたのは折口信夫でした。『万葉集』の分類(部立て)のなかに「鎮魂」という言葉は見られません。そのかわりに「挽歌」という言葉が使われています。これは皇族や貴族たちの死に献ぜられた歌のことです。『万葉集』の編者たちにとっては、「挽歌」に分類されるもののみが、鎮魂の意味をもつものとして理解されていたのです。それ以外の歌、「雑歌」や「相聞」に分類されているものからは、すでに鎮魂歌としての機能が見失われていた。たんなる叙景や恋愛の歌として受け取られていたということになります。
 これにたいして折口は、叙景歌や恋歌と見えるものの多くは、本来は鎮魂歌であったと考えました。古代の鎮魂法の中心的な観念は、「魂振り」と呼ばれるものです。これは先の安騎野の冬猟歌にも見られるように、死者の魂を呼び起こし、自らに固着させることをいいます。元来は私的な追憶や思慕といった個人的動機からではなく、天皇霊の継承というような、共同体の秩序を維持するための公的儀式として行われていたと考えられます。その点で、人麻呂の冬猟歌などは、神話と似た機能を果たしていたと言ってもいいかもしれません。
 氏族共同体的な集団意識のなかでは、魂というものが非常に強い威力を発揮すると考えられていました。だから鎮魂法が重要な意味をもっていたのです。何かにつけて滅びた者への鎮魂の挨拶が欠かせなかった。これを怠ると、死者の魂は大きな禍をもたらしかねないと信じられていました。また天皇霊に見られるように、自分のなかに取り込むことができれば、権力の継承者としての威力が生じる。とくに人麻呂たちが活躍した『万葉集』でも初期の時代というのは、絶え間ない宮廷内での勢力争いを経ながら、しだいに律令制を骨格とした天皇権力が強固に統一されていく過程にあたっています。そうした不安定な時期において、魂振りによる鎮魂法は、公的権力の確立の上でも大きな意味をもっていたはずです。人麻呂のような宮廷作家が重用されたのも、詩歌をつくって貴人たちを楽しませるというよりは、もっと政略的な理由によるものだったのでしょう。
 古代の天皇の葬送儀礼に「殯(もがり)」の習俗があったことは広く知られています。これは死者の遺体を、かなり長い期間にわたり、喪屋と呼ばれる小屋に収めて葬送を行うことをいいます。七世紀に書かれた『隋書倭国伝』には、「貴人は三年外に殯し」という記述が見られます。また『日本書紀』が記すところによると、天武天皇の殯は二年に及ぶ長いものでした。こうした皇族たちの死に際しては、殯宮(もがりのみや)という遺体を安置するための建物まで設えられました。『万葉集』では「あらきのみや」と呼ばれています。さらに殯宮に奉仕して歌舞や供膳の役を務める人たちが、「遊部(あそびべ)」という職能集団として一つの氏族を形成していたことも知られています。
 こうした風習が有力な首長層だけでなく、広く一般的に行われていたことは、大化の改新の後に出された「薄葬令」(六四六年)によって、庶民の殯が禁止されたことからもうかがわれます。葬送に数年という長い期間を要したことは、ちょっと異様な感じがします。しかし古代の人たちは、死んでも一年くらいは、生死が決しないと考えていたらしいのです。そのあいだは死者の復活を願いつつも、死者の霊魂を畏れ、これを慰める必要を感じたのでしょう。長い時間の経過のなかで、遺体の腐敗や白骨化といった物理的変化を見届けることで、ようやく死者の最終的な死を確信できたのかもしれません。ちなみに現在も行われている通夜は、殯の名残りだとも言われています。
 天皇のように身分の高い人が亡くなった場合は、長い葬送の期間中に、「誄詞(しのびごと)」という死者を追悼する言葉が奏上されました。これも現在の弔辞に、名残りをとどめていると言えるかもしれません。つまり死者を偲び、功績を讃えるための言葉です。ここから挽歌が生まれてきたと考えられています。『万葉集』におさめられた挽歌には、夫人などがつくったとされる後宮挽歌や、専門の詞人たちの手になる舎人挽歌などがあります。
 第二巻には、とりわけ挽歌が数多く収録されていますが、そのなかに「皇子尊の宮の舎人等、慟傷みて作れる歌二十三首」と題された一連の挽歌があります。ここで「皇子尊」と呼ばれているのは、安騎野の冬猟歌の主人公であった日並皇子(草壁皇子)のことです。「舎人」というのは、皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者たちのことです。皇子が亡くなったとき、彼らが献じた歌ということでしょう。(折口は人麻呂の代作と考えていたようです。)
 これらの歌のなかで注目したいのは、鳥についてうたった以下の三首です。

 島の宮 上の池なる 放ち鳥 荒びな行きそ 君まさずとも(二・一七二)
 御立せし 島をも家と 住む鳥も 荒びな行きそ 年かはるまで(二・一八〇)
 鳥くら立て 飼ひしかりの兒 巣立ちなば 真弓の岡に 飛び帰り来ね(二・一八二)

 「島の宮」というのは、皇子がいた離宮のようなところだと思います。皇子は生前、鳥を飼って愛玩していたのでしょう。その鳥たちが、主のいくなった宮の池の上を飛んでいる様子をうたったものです。折口も述べているように、古来より、鳥は魂の運搬者と信じられていました。人の霊魂は鳥によってもたらされ、また鳥になって去るという考え方があったのです。とくに水辺に飛来する渡り鳥は、遠く霊界へ去った死者たちの魂が、時を定めて帰ってくるものと考えられていました。
 上の歌で、最初の二首はともに「荒びな行きそ」という表現が出てきます。これは「どうか離れ離れになって飛んでいってくれるな」というくらいの意味です。三首目の歌も、皇子が飼っていた鳥の雛がかえって巣立ちをしようとしている。その鳥たちに、「また帰って来ておくれ」と呼びかけているわけです。つまりこれらの歌は、皇子の魂を呼び戻そうとする「招魂」の歌と解すことができます。
 すると人麻呂の作とされる、つぎの歌はどうでしょう。

 淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ(三・二六六)

 夕暮れの波間を鳴きながら群れ飛ぶ千鳥をうたった叙景の歌と解釈しても、充分に歌の美しさと情感は伝わってきます。水鳥たちの鳴き騒ぐ声を聞いているうちに、ぼんやりとした気分になって、過去のことがあれやこれやと思い出される、といった体験は誰にもありがちなものです。しかし、そうしたオーソドックスな解釈では済まないのかもしれません。この歌が詠まれたのは、人麻呂が大津の近江朝廷跡を訪れたときとされています。壬申の乱(六七二年)で朝廷軍が敗れ、大友皇子が自害して果ててから、それほど年を経ていないころです。かつての大津宮は荒れ果てた廃墟になっていたことでしょう。この歌について白川は、「夕波千鳥」が鳥形霊の面影をとどめているとした上で、滅びた者たちへの鎮魂歌であると断じています。


 『万葉集』には、春菜摘みの歌が数多くおさめられています。もともと草摘みは、天候の安定や豊作や村落の平穏無事などを祈願するために、共同体的秩序のもとで行われる予祝的な神事でした。この予祝は、神との約束を一定の条件のもとに満たすことによって成就されると考えられていました。その条件として、標(しめ)という標識を立て、神縄などを結び渡して、神域としてその地を表示したらしいのです。つまり「標結ふ」ことからして、すでに何らかの願望のために神に働きかける魂振り的な行為であったと言えます。そうした文脈から、つぎの歌を読んでみましょう。

 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(一・二〇)

 この額田王の有名な歌を、「なんて大胆なことをなさるの、わたしに向かって袖を振るなんて。野の番人に見られたら大変じゃないの」と恋歌ふうに解していいものかどうか。むしろ懸命に草摘みをする乙女に悪戯をしかける男(天皇)を、やや遊戯的な気分で軽く戒める歌、というくらいに受け取った方がいいのではないでしょうか。標野で草を摘む女性は、神事にたずさわっているわけですから、一時的に禁忌(タブー)の状態にあります。いかに天皇であろうと、そのような女性に袖振る(モーションをかける)のは不謹慎な行為であったはずです。
 同じように、山部赤人のこれまた有名な歌。

 明日よりは 春菜摘まむと 標し野に 昨日も今日も 雪は降りつつ(八・一四二七)

 この歌も、たんに「草摘みができなくて残念だ」という意味にはならないでしょう。雪が降って草摘みができないということは、祈願が成就しないということです。共同体の将来がかかっているわけですから、大変なことだったはずです。たんなる自然愛好家の歌というよりは、やはり何か霊的な交感が詠まれていると解すべきだと思います。
 草摘みが神事的儀礼であったことを示す歌としては、つぎのようなものの方がはっきりしているかもしれません。

 いざ兒等 香椎の潟に 白たへの 袖さへぬれて 朝菜つみてむ(六・九五七)帥大伴卿
 時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな(六・九五八)大弐小野老朝臣
 往き還り 常にわが見し 香椎潟 明日ゆ後には 見むよしも無し(六・九五九)豊前守宇努首男人

 大宰府の長官であった大伴旅人が、大納言に任ぜられて大宰府を去り、奈良へ向かうときに詠んだとされる歌です。香椎宮に参詣したあと、一行は近くの香椎潟で海藻を摘みました。その一首目に、「さあ皆の者、袖の濡れるのも気にせずに、朝餉の藻を摘もうではないか」といった解釈をあてていいのかどうか。現在でも、下関市の住吉神社と北九州市の和布刈神社では、陰暦の大晦日から元旦にかけて、夜中の干潮時に神官が海に入ってワカメを刈り、神前に供えるという神事が執り行われています。旅人たちの歌に詠まれているのも、これに類することではなかったかと思われます。おそらく道中の安全を祈願し、都への帰還を確実にするための、予祝的意味をもつものだったのでしょう。
 折口信夫は「国文学の発生(第四稿)」のなかで、「呪言はもと、神が精霊に命ずる詞として発生した。自分は優れた神だということを示して、その権威を感銘させるのであった」と述べています。折口が「ホ」の音に着目したことは、よく知られています。「ほぐ(祝ぐ)」や「ほむ(褒む)」など、「ほ」を語幹とする動詞は、もともと神が精霊に向かって働きかける動作を意味していました。「ことほぎ(寿ぎ・言祝ぎ)」の詞に感応して、稲に宿っている精霊が「ほ(穂)」を出す。これが「よごと(寿詞)」や「のりと(祝詞)」の古い形式であった、と折口は考えます。
 最初は神の一方的な託宣であってものが、しだいに神と精霊の問答として様式化されてきました。つまり神の言葉に答えて、精霊の方も何か言うわけです。もちろん実際の神事では、神に扮した人間と精霊に扮した人間との問答になります。それが神に扮する人間と神を接待する村の処女との問答になり、さらには村の男と女の掛け合いになっていった、というのが折口の説です。おそらく穂を出す、実をつけるといった自然現象は、生殖行為とのアナロジーによって、神に扮する男と精霊に扮する女のやりとりに転化しやすかったのでしょう。こうした過程を経て、五穀豊穣を祈願するための神事が、「うたがき(歌垣)」のような男女の性欲的な問答へ発展していき、さらに時代が下ると、相聞に見られる恋愛詩的なものになっていったと考えられます。
 白川静も同様のことを述べています。氏族共同体の時代には、神事的な習俗として行われていた草摘みが、共同体的紐帯の弛緩とともに、私的な予祝行為として行われるようになった。『万葉集』にみえる草摘みの歌は、そうした時代のものだというのです。豪族勢力が伸長し、地域的政権が成立するなかから、王朝的な統一政権が樹立されるに及んで、古い共同体は解体していかざるを得なかった。律令制的な新しい国のしくみのもとで、社会構造は変質し、古代的な共同体の秩序は失われていく。それにともない、元来は氏族共同体的な神事として行われていた草摘みが、しだいに個人的な動機によって行われるようになったということだと思います。

 君がため 浮沼の池の ひし採むと 我が染めし袖 ぬれにけるかも(七・一二四九)人麻呂
 君がため 山田の澤に ゑぐ採むと 雪消の水に 裳のすそぬれぬ(十・一八三九)不詳
 妹がため 菅の実採とりに 行く吾を 山路にまどひ この日暮しつ(七・一二五〇)人麻呂

 これらの歌で「ヒシ」や「クワイ」や「ヤマスゲ」の実を採ることは、「あの人に差し上げるために」ではなかったと思われます。そのような現物贈与のために採集が行われたのではなく、先の春菜摘みの歌と同様に、神々との約束を果たすことによって自分の魂を相手に魂に合一させようという、魂振り的な行為だったのではないでしょうか。こうした「君がため」「妹がため」という発想をとる歌は、『万葉集』のなかには非常に多く見られます。いわば紋切型の常套的表現だったと言っていいでしょう。「片歌」や「旋頭歌」の古い形式が、類型は類型のままに個人的な契機の方へ引き寄せられていった。そして徐々に相聞的な予祝の歌に転化していったということだと思います。
 それにしても、歌に込められた真実味という点ではどうでしょう。あまりにも類型的といか、ただ雛型に適当な言葉を入れただけのような歌に見えないでしょうか。これらは本当に恋愛詩なのでしょうか。ある特定の一人の相手を念頭において詠まれたものなのでしょうか。たしかに「君がため」「妹がため」とうたわれてはいるのですが、どこか外面的、形式的な感じを拭えません。当事者でなくても、誰か第三者でも、容易につくれそうな歌です。個の表現というよりも、なお集団的な表出行為という側面が強いようにも感じられます。


 恋歌が挽歌に由来するという説を唱えたのは折口信夫でした。先にも述べましたように、古代の鎮魂法の中心的な観念は、「魂振り」と呼ばれるものです。「魂ごひ」「魂よばひ」など、幾つかの呼び方がありますが、いずれも魂のつながりを回復しようとすることを目的としています。古い時代の挽歌には、すべてこうした魂振りの意味が込められています。
 『万葉集』が成立した七世紀から八世紀というのは、古代的なものが滅び、律令的国家の体制が急速に進行しつつある時代でした。火葬の施行によって、古来の招魂儀礼は衰退し、それとともに挽歌本来の意味合いも失われていきます。するとどういうことが起こるのか。挽歌が、あたかも恋歌のように見えてくるのです。

 君が行 日長くなりぬ 山尋ね 迎へに行かむ 待ちにか待たむ(二・八五)
 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根し枕きて 死なましものを(二・八六)
 ありつつも 君をば待たむ うちなびく わが黒髪に 霜の置くまでに(二・八七)
 秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いづへのかたに わが恋ひやまむ(二・八八)

 第二巻には、挽歌とともに相聞も数多くおさめられています。そして編者たちは、これらの歌を相聞に分類しています。相聞とは、ある特定の相手に向けた贈答歌です。『古今和歌集』以降は、「恋の歌」と解されるようになっていきます。もちろん『万葉集』における部立ては、大伴家持たちが採用した編集方針であり、歌がつくられた目的や状況を反映したものでは、かならずしもありません。
 上の四首は、いずれも磐姫皇后が亡き天皇をしのんでつくったとされる歌です。ゆえに元来は挽歌であったという説は、自然な解釈のように見えます。しかし八世紀の中ごろには、すでに相聞として読まれていた。当時の編者たちの理解の仕方では、これらは「恋の歌」に分類されるものでした。『記紀』や『仁徳記』などの記述によって、ずいぶん嫉妬深かったと伝えられる磐姫皇后が、亡くなった夫(仁徳天皇)への恋情を吐露した歌、といった解釈でしょう。
 たしかに、そう読めてしまう。また、そのように受け取った方が、現代のわれわれにはしっくりくるところがあります。恋の歌、しかも非常に激しい恋の歌です。二首目などは、とくにそう読めます。「こんなにも恋焦がれるくらいなら、いっそ死んでしまった方がましだ」といったところでしょうか。うたい手の苦しい胸の内が伝わってくるようです。三首目にも、「白髪になるまで、あの方をお待ちしよう」と強い情念が込められています。
 では、挽歌として読めばどうなるでしょうか。一首目の歌には、「待ちにか待たむ」という表現が出てきます。また三首目にも、「君をば待たむ」と似た言いまわしが使われています。白川によると、「待ちにか待たむ」「君をば待たむ」「待つには待たじ」といった類型的表現は、本来挽歌のものでした。また「山尋ね」とは、死者の葬られている山中の墓所を訪ねることであった、と折口は述べています。すると四句の「迎へに行かむ」というのは、死者の魂を迎えに行くという意味になるでしょう。そこで死者の魂が寄り添ってくるのを待つのです。
 古代の自然観においては、天候や気象もしばしば霊的なものとのつながりにおいてとらえられます。彼らにとって自然は、多分に神話的なものでした。すると四首目の「秋の田」の歌はどうでしょう。ここで詠まれている「朝霧」は、田んぼの稲穂の上にぼんやりかかっている水蒸気というよりは、もっと霊的なニュアンスをもっているのではないでしょうか。鳥が死者の霊の具現化したものであったように、ここでは霧が、そのようなものと観ぜられていたのかもしれません。秋の田にかかった朝霧が、わたしにはあなたの霊のように見える。それはどこへ帰っていくのだろう。あなたの魂の在所を知ることができるなら、こんなふうに切なく乞い求めることもなくなるであろうに……。
 折口も言っているように、飛鳥・奈良の時代に至ってもなお、宮中に仕えていた女性たちは、みんな巫女としての自覚をもっていました。彼女たちは宮廷の神および神なる君に仕えていたのです。したがって故人を偲ぶ歌にも、そうした巫女的な気分が底流していたと考えなければなりません。先の磐姫皇后の歌は、おそらく代作者が彼女の立場で詠んだ歌でしょう。自分以外の女性を寵愛する夫への嫉妬に悶え苦しんだ、という伝説の皇后です。彼女の気持ちを想像しながら、代作者たちは歌をつくったはずです。するとこれらの「恋の歌」は、同時に巫女の魂振り的な歌としての側面をもっている、と言うこともできるのではないでしょうか。
 家持の時代には、すでに人々のなかから、そうした魂振り的な感受性が失われていたということかもしれません。すると相聞の文脈で読むしかなくなる。「秋の田」の歌などは、主観と客観がうまく組み合わされた、非常に完成度の高い歌として受け取られたはずです。叙景のなかに抒情を映す「朝霧」は、はかないものの比喩とか、鬱屈した心象風景ということになるでしょう。これらのことは歌を受け取る側の自然観が変化したことを暗示しています。自然から神話的な意味が失われるにつれて、秋の田に漂う霧は、繊細な恋愛感情を投影するための比喩的自然に変容していきます。あるいは恋愛の象徴としての自然としてとらえなおされていきます。こうして挽歌は、しだいに恋歌として読まれるようになっていったと考えられます。
 挽歌が魂振りの意味合いを失い、恋歌として読まれていくにつれて、今度は挽歌的な表現を手本として恋歌がつくられる、という逆転した現象が生まれてきました。つまり歌の解釈が、歌のつくり方にも反映してくるわけです。その理由として、短歌の独特の声調が早い段階の挽歌において成立したこと、初期の挽歌が歌として高い完成度を示していたこと、などが考えられます。また何よりも挽歌は、故人への追念や思慕の情を述べるものですから、相聞的な抒情性を表現するのに適したスタイルであった、とも言えるでしょう。
 類型的とも言える挽歌の表現を踏襲しながら、恋愛詩としての抒情性が展開されていく。とくに強い恋情を詠んだ歌では、意図的に挽歌の修辞法が使われるようになっていきます。つぎにあげる歌は、そのようなものとして読むことができます。

 君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く(四・四八八)額田王
 風をだに 恋ふるはともし 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ(四・四八九)鏡王女

 第四巻におさめられた相聞です。一首目には額田王が天智天皇を偲んでつくった歌という題詞がついています。二首目の作者、鏡王女についてはよくわかっていません。本居宣長は額田王の姉と考えていたようですが、異説も多いようです。それはともかく、二首とも秋相聞として第八巻にも出てきますから、当時は代表的な相聞歌とされていたのでしょう。少なくとも編者たちの目には、完成度の高い歌と映っていたことはたしかです。第四巻と第八巻は、ともに大伴家持が編集したと考えられています。彼は後代の詠み手たちに、「これらを手本にしなさい」と言いたかったのかもしれません。
 ところで一首目を額田王の作とすることには、早くから疑問がもたれていました。作風が他の額田王の作とされる歌とはあまりにも異なっていること、「すだれ動かし秋の風吹く」といった繊細な表現が、この時代に突然あらわれることの不自然さ、などが主な理由です。やはり後代の歌人が仮託してつくった歌、と解するのが穏当ではないでしょうか。つまりフィクションです。額田王や鏡王女といった叙事伝説上の女たちをヒロインとしてつくられた、虚構の恋歌ということになります。
 まず歌の作者は、二人のヒロインを、ともに天智天皇の寵愛を受けた女として想定しています。いわば恋敵であり、二人のあいだには嫉妬などの対立感情があったかもしれません。そこで一首目、「すだれを動かして秋風が吹いていく」といったデリケートな情感を湛えて、恋する人を待ちかねている切ない女心が優美に描かれます。それに答えた歌、「風をすら恋焦がれているなんて、羨ましいこと。風が吹くたびに、あの人が来たのかしら、と胸をときめかすことができるなら、何を嘆く必要があるかしら」といくらかの皮肉を交えながらも、いじらしく応じます。まさに相聞の形式を踏んだ恋の鞘当てが繰り広げられているわけです。
 いずれの歌も、誰か特定の人を想定して詠まれたものではないでしょう。挽歌の類型を踏みながら、表現の上での洗練と繊細が追求されている。その結果、先の磐姫皇后の歌に比べると、呪術的な暗さ、重さ、激しさ、おどろおどろしさは影を潜め、ずいぶん上品で可憐な印象を与えるものになっています。理解できない言いまわしはありません。そこに表現された、恋する女たちの心情は、現代のわれわれにもすんなりと通じてしまう。その意味では、かなりモダンな歌と言ってもいいかもしれません。
 こうした歌が秋相聞を代表するものとされ、長い歳月にわたって人々に愛誦されてきたわけです。読み手に「いいなあ」と思わせるものがあったからでしょう。歌を受け取る人々の心に共鳴する何かがあったのでしょう。だから時代を超えて愛誦しつづけられた。フィクションの力とは、そういうものだと思います。歌が詠まれた状況は嘘だとしても、歌に詠まれたものは真実なのです。


 いったい恋愛感情というものは、いつごろ、どのようにして発見されたのでしょうか。性愛はあくまで生殖に重きを置いたもので、動物としての本能的な色合いを強く残しています。そこから恋愛感情が生まれてきたとは考え難い。生殖はどこまで行っても生殖であり、恋愛とはとりあえず関係がありません。ぼくたちが恋愛感情として知っているものは、生殖や性愛とは、まったく別のところからやって来たと考えざるを得ません。
 これまでに見てきた文脈で言えば、日本における最初の恋愛詩は挽歌のなかから出てきました。挽歌には、古い呪歌の伝統が反映しています。そこで中心的に詠われているのは、魂振りによる死者への鎮魂でした。こうした挽歌のなかで、はじめて強い感情表現があらわれます。たとえば「待つ」という表現は、死者の魂との交感の場面で、とりわけ切実な意味をもちました。すなわち死者の面影が甦り、その魂が自分に寄り添ってくれるのを「待つ」のです。待ちきれないときには「迎えに行く」という表現が使われます。これも死者の魂を迎えに行くのです。こうした歌がつくられた背景には、生者と死者が自然を媒介として霊的に交感し合う古代的な世界観がありました。
 やがて律令的な国家の体制が確立されていくにつれて、古代的なものは滅びていきます。氏族共同体的な紐帯を解かれた人々は、いわば一人一人の個人として、新たな秩序と緊張関係なかを生きることになりました。こうして公的・儀式的な魂振りは、少しずつ私的・個人的なニュアンスを強めていったと考えられます。そして磐姫皇后の歌に見られるような、一人の「私」の立場から、死者にたいする激しい追念思慕の情を詠んだ歌があらわれてきたのです。
 この時代に至ってもなお、個人的動機から歌がつくられることはありませんでした。当時の人々には、個の感情を表現する機会も、また必要もなかったと言っていいかもしれません。個人も作者もないところで、長いあいだ歌は詠まれ、つくられてきたのです。「魂ごひ」や「魂よばひ」といった招魂儀礼にしても、もとは共同体の利益のために、あるいは皇位継承のような公的な目的で、儀礼的に行われていたものでした。そこに表現された感情は、今日のわれわれが想像するよりは、ずっと政治的でドライなものだったと思われます。
 磐姫皇后の挽歌にしても、個人的動機からつくられたものではありません。おそらく作者は人麻呂のようなプロの宮廷歌人でしょう。彼らが磐姫皇后に仮託して歌を詠む。そこにはどんな意味や目的があったのでしょうか。おそらく天皇という共同体の運命を左右する重要な人物の死を神話化し、統一的な国家意識のようなものに高めたかったのだと思います。そのために嫉妬深いヒロインが呼び出されたのです。彼女の立場から、一人称的な「私」の場所で、過去の天皇にたいして強い哀悼の意を表す。彼女の思いが、共同体的意識にまで高められ、共同体の成員たちによって共有される必要がありました。こうした目的のために、仮託(虚構化)は非常に効果的に機能していると思います。
 この段階に至ると、もとは公的・儀礼的であった挽歌が、個人の私的感情を盛り込むことのできる器として整えられていることがわかります。公的な挽歌を利用して、私的な感情は表現の水路を見出したと言ってもいいかもしれません。個人の意識や意思が寄せ集まって、共同体的意識が生まれてくるというのは誤りです。むしろ共同体的意識のなかで、個人の意識や意思が発見されると言った方が正確でしょう。同様に、最初に個人のリアルな感情があり、それを表現するための言葉が生まれてくるというのは、道筋としては正しくありません。少なくとも文学の場合は、まず形式があるのです。自由詩の前には、定型詩の時代が長くつづきました。
 しかも磐姫挽歌に見られるように、古代の叙事的な物語や人間関係に仮託して歌が詠まれる時代が長かったと考えられます。それは現代のぼくたちの感覚で言えば、フィクションのなかで歌をつくるということです。伝説的な天皇や妃たちを主人公に立てて、彼らは幾つもの歌を詠みました。そうすることで歌はドラマ性を獲得していきます。あるいは誇張をともなった、激しい叙情性を獲得していきます。こうして歌は、徐々に古代の牧歌的な歌謡性を脱し、厳しい韻律と悲劇的な声調のなかへ投げ込まれていくことになりました。
 また国家が不安定な動揺期にある段階では、強固な共同体意識を育て上げるためにも、磐姫挽歌のような歌は積極的につくられたと思われます。しかし国内の政治秩序が安定してくると、歌はそれまでのチーフを失うことになります。そして『万葉集』の歌は、相聞的な抒情性へと急速に傾斜していくことになるのです。ぼくたちが恋愛詩として無理なく受け取ることができるのは、これら以降の歌です。
 先ほども申しましたように、美しい叙景をともなった隠微で繊細な感情表現といったものは、あくまで技巧的に出てきたものです。短歌表現の技巧が技巧として追及されるなかで生まれてきた、優美さであり繊細さなのです。そうした歌に親しみ、それらを手本として歌をつくる、といったことを繰り返していくうちに、少しずつ実感が肉付けされていき、真実味がともなってきた。つまり感情が表現に追いつくようになった。このときはじめて、恋愛詩のようなものが成立したと考えられます。
 逆の言い方をすれば、われわれの祖先は短歌的な恋愛表現に導かれて、「恋愛」という未知の感情を発見したのではないでしょうか。恋愛感情は恋愛表現に先行され、恋愛表現には挽歌的表現が先行していました。起伏や陰影に富んだ幅広い感情表現は、まず死者との関係において成立しました。そうした挽歌的な表現のなかから、やがて優美で繊細な恋愛表現が生まれてきました。死者への思慕や追憶を生きている者へ向けるとき、挽歌的な激しい表現は、自ずと声調を和らげて恋愛表現になった。やや図式的に言うなら、「あなたのために……」という同じ表現を、死者から生者へ転用したとき、はじめて恋愛表現のようなものが可能になったということかもしれません。
 無数の読者が恋愛詩を読み、無数の作者が恋愛詩をつくるなかで、表現と作者のあいだの溝は少しずつ埋められていきました。こうして本当の意味で、恋愛詩が成立した。それは個人の心のなかに、恋愛という感情が生まれたことを意味していました。『源氏物語』のような宮廷文学に描かれた恋愛も、おそらく同じような経緯の下に達成されたものだと思います。たとえば光源氏と紫の上の関係は、神と巫女との相聞を想わせます。六条御息所の生霊には、磐姫挽歌の遠い声調が聞かれないでしょうか。この作品の作者たちは、かなり自在に恋愛を描けるようになっていますが、宮中の貴人たちが繰り広げる艶やかな恋の諸相にはなお、古代の糸が織り込まれている気がするのです。
 以上、長々とお話してまいりました。最後に結論めいたことを申し上げますと、一つは、文学は常に人間の未知の領域を開拓する可能性を秘めている、ということです。フィクションという形式のなかで、はじめて手を触れることのできる人間性が、われわれのなかにはなお眠っているのかもしれません。二つ目は、どんなに現代的な装いをこらしていても、恋愛は古代的な世界観や原初の感情にまで連なるものだということです。恋愛を描くということは、人間がはじめて世界を感じ、自然や死や他者を認識しようとした時代に言葉を届かせるということです。そうした自覚をもって、これからも小説を書いていきたいと思っています。

参考文献
 白川静『初期万葉論』(中公文庫)
 折口信夫『古代研究』(中公クラシックス)
 佐佐木信綱編『万葉集』(岩波文庫)

※二〇一〇年一〇月、国際文化基金派遣による韓国、中国での講演原稿。実際の講演では、通訳の問題もあり、内容をかいつまんで話した。