特集

なぜ核エネルギーに反対するのか


 最近はときどき、こうして講演会などに呼ばれてお話しするのですが、どうも主催者側は「愛」という言葉をからめた流れにもっていきたいみたいで、今日の講演のタイトルも、「原発をやめ、愛ある日々と未来を」ということになっています。なんなんでしょう、「愛ある日々」っていうのは。ぼくの方が教えてもらいたいくらいです。去年の暮れに、玄海原発訴訟で意見陳述をしたのですが、そのときの地元の新聞の見出しも、「法廷の中心で、脱原発をさけぶ」というものでした。だいたいそういう感じなので、もう少々のことでは驚かなくなりました。
 先の意見陳述のなかで、「核エネルギーの問題を放置して小説を書きつづけることは、自らの文学を否定してしまいかねない矛盾と欺瞞を抱えることになる」とかっこいいことを言っていて、今日の講演会のチラシにも引用してもらっているのですが、最初にそのことを少しお話しようと思います。そもそも文学とは何か、どういうものかということですが、ぼくは文学というのは人間という概念の拡張をめざすものである、人間の様々な可能性を探るのが文学である、というふうに考えています。
 人間という概念を拡張するというのは、どういうことなのか。わかりやすいところで言えば、百メートルを九秒台で走ることも、人間という概念の拡張にあたるかもしれません。あるいは八十歳でエベレストに登るとか、人間としての限界に挑戦して、それを打ち破ることは、既存の「人間」という概念を拡張することになるでしょう。すると小説は、モーツァルトやレオナルド・ダ・ヴィンチみたいな天才のことを書けばいいことになります。実際にルネサンス期には、人々は「天才」という概念のなかに、人間の理想を見ようとしました。天賦の才能を与えられた人たちのなかに、通常の人間を超えるものを見出そうとした。それによって人間という概念の拡張がはかられたと言えます。
 しかし皆さんが小説を読まれると、とくに一九世紀以降の近代文学と呼ばれる作品のなかには、そういう天才的な人たちの話はあまり出てこないと思います。いわゆる偉人たちのことを書いたものも少ない。むしろ人間の弱さとか卑しさ、強欲さ、残酷さ、残虐性といった、悪い面や暗い面を描いた作品の方がずっと多いでしょう。また、そうした作品にすぐれたものが多いことも、文学の面白いところです。たとえばマルキ・ド・サドやドストエフスキー、あるいはフォークナーの作品のように、人間の明白な悪を描いた小説のなかにも、高い文学的価値をもつものがあります。こうした作品においても、人間という概念の拡張が起こっていると言えるのでしょうか。それがなぜ人間の様々な可能性を探ることにつながるのでしょうか。
 二つの面から考える必要があると思います。一つは、作品のなかに描かれた内容をとおして、人間というものは、こんなことを考えたり、こんなことをしでかしたりするものなのだ、ということを具体的に表現することによって、人間の幅を広げると言いますか、人間理解の幅を広げようとするのです。これは天才の生涯を描いても同じです。彼は波乱万丈の生涯を送りながら、こういう苦労をしながら偉大なことを成し遂げた。それはそれで読者を説得するでしょう。しかし文学作品としてはちょっと物足りない感じがします。つまり自分とはかけ離れた人間の話ということで、どうしても共感の度合いが弱い。さらに偉大さ、立派さというのは、やはり人間の一面でしかない。そういう面だけで人間をとらえると、人間のイメージが薄っぺらなものになってしまう。その物足りなさもあります。
 むしろ自分と似たような人間が、これだけ深く苦悩している、こんなに豊かな感情をもっている、ということを示す方が説得力もあるし、人間理解としてはより深いところまで届いていると言えるかもしれません。そこでたとえば、一つの観念にとりつかれることで普通の青年が罪もない老婆を殺したり、上流階級の真面目なご婦人が、ある状況に置かれることで姦通の罪を犯したりする話が書かれるわけです。その方が身近でリアリティがあり、小説としても面白いということになります。
 どこにでもいそうな人たちが、可能性として非常に大きな思考や感情や行動の幅をもって生きている。善にも悪にも、人間の振幅は果てしなく広いものなんだということを、虚構という小説の特質をうまく使いながら生き生きと示す。そういうことを文学はやろうとするわけです。それは天才と呼ばれる人たちがもつ輝かしい能力、人間が全能であることへの自己反省も含んでいると思います。有能であること、偉大であることは、果たして人間にとっていいことなのだろうか。人間の価値や理想は、そういうところに求められるのだろうか……というふうに、既存の人間理解や人間認識に揺さぶりをかけることで、人間という概念を拡張しようとする。そのことで人間にたいする認識が深まったり、視野が広がったりすることがあると思います。これが第一の点です。
 もう一つ、重要な点があります。それは小説を読む側、読者にかかわることです。たとえば人を殺す話なんてとんでもない、殺人が描かれた小説など出版禁止にすべきだ、と思っている人には、ドストエフスキーやフォークナーの小説は読めないでしょう。自殺はけしからんというなら、ゲーテの『ウェルテル』はけしからん小説ですし、姦通はけしからんという人には、フローベールの『ボヴァリー夫人』やトルストイの『アンナ・カレーニナ』はけしからん小説ということになります。赤裸々な性表現は許せないという人は、D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』やヘンリー・ミラーの『北回帰線』はお読みにならない方がいいでしょう。サドの一連の小説などは、地上から抹殺した方がいいということになりそうです。
 これらの作品を文学として観賞するためには、善悪とか貞操とか猥褻とか、そういう通説的な倫理観、道徳観念のようなものを、ひとまず括弧に入れなければなりません。それが小説を読むということです。もちろん現実の殺人が悪いことであるくらい誰でも知っています。しかし善悪という場所で、あるいは個人的な快・不快という場所で、小説を文学として観賞することはできません。明治時代に黒田清輝がはじめて裸体画を出展したとき、それを見た当時の日本人は非常に驚いて、一種のスキャンダルになったそうです。社会的な風紀を乱すということで撤去を求められるとか、そういうことがあったわけです。いまは誰でも普通に裸体画を観賞します。それは日本人の自我のあり様が変わった、一人一人の自我が少し広がった、膨らんだということだと思います。性的な関心にとらわれていたのでは、裸体画やヌード写真を鑑賞することはできません。だから社会風紀的にけしからんという人たちの方が、女性の裸を性的に見ているということになるわけです。
 芸術とか美とかいう概念が成り立つためには、道徳的な判断や個人的な好き嫌いをひとまず離れなければなりません。それは道徳的なものを否定するということではありません。道徳的な判断にたいしてニュートラルな場所に立つ、あるいは個人的な好みや快・不快を離れて物事を見たり、判断したりするテクニックや操作法を身につけるということです。文学作品を読んだり、美術や音楽などの芸術を鑑賞したりすることによって、ぼくたちは一つの民族や国家や共同体に属することで、無自覚に身につけている狭い価値観を脱し、より広い視点で、より広い視野で物事を見る術を身につけていきます。それは自我という場所、自分という領域が広がっていくことでもあります。自分の感情や利害を離れて、より公正に、よりブリックな視点で世界を見る。現にある自分という場所を離れ、より広く、より長いタイム・スパンで対象をとらえる。
 それが「自由」ということです。人間にとっての「自由」ということだと思います。つまり人間の自由は二つの面から考えられるのです。一つは、人間というのは可能性として非常に広い幅をもって存在しているということ。善にも悪にも無限の広がりをもつものだということ。そういう理解や認識を深めることが、ぼくたちが自由であるための一つの条件です。もう一つは、国家とか共同体といった自分が偶然に生きている場所を離れて、その場所に規定された価値観を離れて、できるだけ広い視野や視点で物事を見る術を身につけるということです。言い換えれば、それは「人類」とか「人間」という視点をもちうるということです。
 ぼくたちは一つ個として生きているし、一つの個体としての生命は有限です。また個人としてなしうることには、自ずと限界があります。いくら足が速くても、生身の人間が百メートルを五秒台で走ることはできないでしょう。いくら寿命が延びても、二百歳までは生きられないでしょう。そういう意味では、ぼくたち一人一人の存在は有限です。しかし「こうありたい」と望むこと、「こうあるべきだ」と構想することは、無限の広がりをもちうる。過去と未来を貫いて人類全体を眺望しうるものです。それが「人間」という場所に立つことであり、「自由」ということであり、主体的に生きるということだと思います。そのような自由と主体性を、文学はめざしていると言っていいと思います。いかにして人間は自由でありうるか。主体的に生きることができるか。それを考えるのが文学であると、ぼくは思っています。
 すると核エネルギーというのは、こうした文学がめざしているものを否定する、その方向性や志向性と真っ向から対立するものであると言えます。つまり人間はいかにして自由でありうるか、いかにして主体的に生きうるか、といった可能性を探ろうとすることに真っ向から対立する、人間の自由や主体性そのものを否定する、それの一つの象徴が核エネルギーだと思うのです。
 人間の技術にかんして、もっとも本質的な検討を加えているのはハイデガーだと思います。彼が繰り返し言っていることは、技術とは人間に制御しえない何かだ、ということです。人間は技術にたいして、けっして超越的に振舞うことができない。人間が技術をコントロールしているというのは、見せかけだけのことに過ぎない。コントロールすることは、すなわちコントロールされることである。このような相互的、双方向的な関係こそが、人間の技術の本質である。そのことをハイデガーは「ゲシュテル」という言葉を使って説明しています。
 たとえば水力発電や火力発電にかわって原子力発電という新たな技術が登場することは、技術や産業の歴史として見れば、進歩や発展ということになるのでしょうが、それは同時に、原発を厳重な管理のもとに運転し、一歩間違えば取り返しのつかない放射能災害を引き起こすというような、よりストレスフルな技術との関係にとらわれることを意味しています。そのようにして原子力発電という技術は、ぼくたちの自由や主体性を奪っているわけです。逆に言うと、原子力発電を選択することで、ぼくたちは非常に強い技術的な拘束の下に生きることを選んでしまっているわけです。
 しかも原子力発電の場合は、現在のぼくたちの自由や主体性を奪うだけでなく、未来の人たちの自由や主体性を奪うことにもなる。たとえば放射性廃棄物については、人間的環境から隔離した状態で数万年以上にわたって保管されなければならないとされていますが、要するに、処理方法のわからないものを未来に押しつけるということでしょう。地球環境や資源の問題なども同じです。二酸化炭素の排出基準をめぐっては、欧米や日本をはじめとする先進国が、自分たちの利害だけで合意を形成して、その合意を世界に押しつけようとしている。たった半世紀ほどのあいだに繁栄を謳歌した、地球上のごく一部の人間が、そういうことを決めようとしているわけです。実際に負の遺産を引き受けるのは未来に生まれる人たちですから、自分たちのツケを未来に押しつけようとしていると言ってもいいと思います。
 仮に核エネルギーをめぐる技術体系を完成させて、人間に害を与えないようにマネージメントできるようになったとしても、そこにより大きな、より深刻な技術的弊害や破壊性が待ち受けていることは、先に触れたハイデガーの技術にかんする考察からして避けられないことです。それが技術の本質であり、技術の厄介さ、忌まわしさなのです。したがって原子力発電を選択するということは、より技術的な未来を選択するということであり、非常にストレスフルな技術に拘束された人々を未来に生み出してしまうことになります。ここにも未来と他者にたいする現在からの規定や限定があります。
 このように核エネルギーを容認することによって、ぼくたちは自らの自由や主体性を損なうことになります。さらには現在の自分たちの利益や都合のために、未来に生まれる者たちの自由や主体性まで奪うことにもなります。先の意見陳述のなかで、「核エネルギーの問題を放置して小説を書きつづけることは、自らの文学を否定してしまいかねない矛盾と欺瞞を抱えることになる」と述べたのは、おおよそ以上のような意味です。


 ぼくは大学では農学部というところに入りまして、これは理系ですから、そのころは国語や英語よりも数学や理科の方が得意だったんですね。高校時代まではまったく文学的な香りとは無縁の生活をしておりまして、大学に入って一般教養の国文学の授業ではじめて夏目漱石を読みました。いまでもぼくは日本の作家のなかでは漱石がいちばん好きですが、彼の主だった作品を一通り読んだあとで、たとえば森歐外などを読むと、とても古風というか、古めかしい感じを受けます。『舞姫』のように雅文調で書かれたものだけでなく、『雁』のような現代小説を読んでも、やっぱり古めかしい感じを受けるのです。
 もちろん『雁』はいい小説ですし、好きな作品ですが、漱石の『それから』や『門』や『こころ』などと比べると、とても同時代の作品とは思えない、一つ時代を遡った作品のように思えてしまうのです。年齢的には鷗外の方が五つほど上ですが、もっとずっと世代が違うように感じられる。『雁』という作品の舞台は明治十年代ということになっています。岡田という学生が主人公で、彼と高利貸しの妾になっている女性との淡い恋、すれ違いの恋が主題として描かれていく。ですから一応、恋愛小説なのですが、描かれている世界が特殊というか、要するに妾の世界、お金で買われた女性たちの世界です。鷗外は他の作品でも遊女のような、いわゆる玄人筋の女性をよく描いています。これは谷崎潤一郎や永井荷風などにも言えることです。彼らは実生活でも吉原とか柳橋とか向島とか、江戸時代の名残のような場所、遊女たちとの粋な遊びの世界をよく知っていたのだと思います。
 江戸時代の恋愛というのは、人情本にしても浄瑠璃にしても、たいてい吉原のような遊郭が舞台です。そこで描かれるのは、主に既婚の男と花柳界の女性とのあいだの色恋ということになります。たとえば商家の旦那が遊女に惚れ、金銭問題がからんで心中したり、女を殺したりするわけです。近松門左衛門などは、実際に起こったこと、いまで言うとニュースの三面記事のような題材を、巧みに作品に取り込んでいたようです。それがヒットしたということは、当時の庶民に支持されていた、共感されていたということでしょう。そのころは自由な恋愛などありませんし、結婚は家同士の結びつきという面が強かった。だから男は家の外で、玄人の女性を相手にしたわけです。鷗外や谷崎、荷風といった人たちの小説は、そういう江戸時代の男女の色恋の面影をよく残していると言えます。
 それにくらべると、漱石の小説に描かれる恋愛はものすごくモダンです。お金を介在させたプロの女性たちとの色恋ではなく、わりと教養のある中産階級の男女の、ぼくたちから見れば普通の恋愛です。つまり対等な男女の恋ということになります。だいたい漱石は堅物というか、根が真面目な人なので、プロの女性たちの世界は知らなかったし、あまり興味もなかったのだと思います。ですから小説のなかでも、明治維新以降に生まれた新興ブルジョアジー、漱石自身の言葉でいうところの「高等遊民」的な人たちの恋愛を描いている。さらに漱石の場合は、男女の性にたいして非常にニュートラルというか、一人の人間と人間の関係として男女の恋愛を描こうとしているようなところがあります。彼の小説でしばしば取り上げられるテーマは、男女の三角関係、一種の不倫関係ですから、明治の社会にあっては親兄弟をはじめとしてみんなから糾弾されるわけです。そういう当時の社会道徳や社会制度と真っ向から衝突してしまう関係に立ち至った男女が、どのように生きていくか、とくに男は相手の女性をどのように扱うべきか、というのが漱石の文学のとても大きなテーマです。ですから彼の作品は、いまぼくたちが読んでも普通に読める、現代の男女の恋愛として共感をもって読めるということになります。
 それにくらべると、鷗外などの女性の描き方、作品のなかでの扱い方はどうしても古風です。お金を介在させた男女の関係がメインになっている。女性はお金をもらって男と関係をもつ。あるいはお金によって囲われる。もちろん多くの場合は不本意に、そうした境遇に身を置いているわけでしょう。男の方から見ると、お金で女性と関係をもち、都合が悪くなると、やはりお金で関係を解消する。そういうことを普通にやっている。当時の感覚としては、悪いことでもやましいことでもなかった。鷗外にしても、特別にひどい男だったわけではなくて、まあ普通だった、男としては世間並みだったということでしょう。むしろ漱石の方がうんと先進的だった、非常にモダンな問題意識をもっていたということだと思います。
 この問題を、もう少し考えてみます。漱石の同世代の文学者に、北村透谷という人がいます。この人は非常に早熟で、あまり早熟過ぎたのか二十代半ばで自殺してしまいます。詩人でもあり、思想家でもあります。文学史的には、日本における恋愛至上主義のはしりと位置づけられ、島崎藤村などに大きな影響を与えたとされています。短い人生のわりにはいろんなことをやっていて、早稲田大学に在籍しながら自由民権運動に参加していますし、運動に挫折したあとキリスト教の洗礼を受け、さらに結婚もしています。鷗外が『舞姫』を書いたころに、彼は「恋愛は人世の秘やくなり」という文章ではじまる『厭世詩家と女性』という評論を発表しています。「厭世的な詩人」というのは透谷自身のことです。つまり自由民権運動に参加して挫折し、絶望して厭世的になったということでしょう。そういう自分にとって、最後の拠り所が女性だ、女性との恋愛だと言っているわけです。
 たんに女性に慰安を求めたということではなかったと思います。もっと積極的な意味が込められている。それは自己意識の問題と言っていいと思います。学生時代に透谷は、自由民権運動というかたちで政治・社会的な運動に参加していきます。社会的な現実のなかで自由や理想を追い求めたはずです。しかし現実の壁に跳ね返されて挫折し、絶望したときに、あらためて自分が生きる意味を考えなければならなくなった。何によって自分を支えるか、どのように自我を救済するか、自分が自分であることの根拠をどこに見出すか、といったことです。そして透谷の出した答えは「女性」でした。女性との関係であり、恋愛ということでした。するとこの恋愛には、自分が自分であることのすべてが賭けられていると言っていいはずです。現実の近代化の運動に挫折したとき、透谷のなかで自己という意識の近代化、自我の近代化ということが真剣に考えられたのだと思います。
 これは漱石の一連の作品にも通じるテーマですし、漱石の強い影響を受けた芥川龍之介とか、その後の有島武郎などにも受け継がれていく、日本の近代文学にとって大きなテーマであると言えます。つまり近代と恋愛を結びつけて考えたということ、彼らにとって恋愛は、そういう意味をもっていたということです。近代とは何かということを、自我や自己意識の問題として考えたとき、ほとんど唯一の答えとして「恋愛」に行き着いてしまう。これは後発近代国家である日本にとって、あるいは日本の近代文学にとって、非常に大きな問題と言えるかもしれません。
 透谷をはじめとして、芥川にしても有島武郎にしても、キリスト教の影響を非常に強く受けています。田山花袋や島崎藤村や国木田独歩なども、若い時期にキリスト教の感化を受けています。彼らがキリスト教に引きつけられたのは、キリスト教が博愛や隣人愛といった、他者との新しい関係の可能性を開示するものだったからだと思います。それは一言で言うと、他者を公正に扱えということです。これを社会現実のなかで実現しようとすれば、自由民権運動や社会主義運動のようなものになるでしょう。実際、有島武郎の場合は社会主義に深く関与していき、最後は自分の農場を小作人に解放したりしています。
 しかし当時の日本の現実として、自由や平等が社会的に実現する可能性はほとんどありませんでした。北村透谷のように言うなら、そうした社会的現実に敗れたとき、彼らは女性たちとの関係に活路を見出したということになるでしょう。つまり社会現実的なレベルで実現不可能な近代的自我を、彼らは女性たちとの関係に求めたということです。後発近代国家である日本において、近代的自我はどのようなものでありうるかと問うたとき、黎明期の文学者たちは、それを江戸時代の因習的な男女の関係とは断絶したところで成立する恋愛、自由で対等な恋愛というところでつかまえようとしたのだと思います。家柄や財力や社会的地位といった制度的なものを抜きにして、一人の女性とのあいだに純粋で自然な愛情による関係が成立すること、相手の女性を人間として対等に公正に扱うことが、すなわち彼ら自身の近代的な自我や自己に対応していると考えられたのです。
 このような意志はどこから来るのでしょうか。明治時代の女性の立場は、いまのぼくたちからすると考えられないくらい弱いものだったと思います。そういう女性にたいして強権的に振舞うのではなく、また庇護者として振舞うのでもなく、対等な人間として対処する、弱い立場に付け入ることなく公正に扱う。なぜ彼らは、そんなふうに振舞おうとしたのでしょう。誰かから命令されたわけではない。彼らの多くがキリスト教の感化を受けたといっても、神から命令されたわけではないでしょう。強いられて、義務的にそうしたわけではない。何か超越的な規範や掟みたいなものがあったわけでもない。ただそうしたいからそうした、という以外の理由はないように思います。
 そうすることが嫌ではなかった、どちらかというといい感じだった。快・不快でいえば快であった。少し理屈っぽく言えば、彼らは主体的であろうとした、自由であろうとしたのだと思います。相手の女性を対等に、一人の人間として公正に扱うことが自由と感じられた。主体的に振舞うことだと感じられた。自由にしても主体性にしても、自分一人だけのものではありません。ぼくたちが主体的であり自由であるのは、他者との関係においてです。他者を自由な存在として扱わなければ、自分が自由とは感じられないでしょう。相手の主体性を認めなければ、自分の主体性も実感されないでしょう。
 こうした自由や主体性のなかには、たとえば自分の欲望を抑制して、他者の欲望を優先させるということも含まれています。これは誰もが普通にやっていることです。自分の欲しいものを買うかわりに、好きな人のプレゼントを買う。殊更な禁欲意識もなく、そういうことができてしまう。なぜでしょう? なぜそんなことができてしまうのでしょう。自分の欲しいものを買うことよりも、誰かに贈り物をすることで得られる喜び、満足感の方が大きいからです。それが人間と動物の大きな違いです。動物たちの快・不快は、いわば生命活動と一つになっています。餌を食べることが快であり、飢えることは不快です。もちろん動物たちも、親が自分の餌を子に与えることはあるでしょう。それは本能としてやっているのだと思います。
 人間の場合は、自分の空腹を代償にして相手の空腹を満たすことで、より大きな価値をつくり出すことができる。自分の欲望を抑制して、他者の欲望を優先させることを快と感じることができる。そこが人間と動物の決定的な違いであり、人間のもっている非常に大きな可能性だと思うのです。たとえば「美味しい」という感覚は、けっして自分一人ではつくり出すことができません。自分が食べるつもりだった食べ物を誰かにあげて、それを食べた相手が思わず笑みをもらしたとき、「美味しい」という感覚は生まれたと思うのです。その相手の笑顔を自分のものとして味わったとき、「幸せ」という実感は生まれたのではないでしょうか。
 そういうことを原発についてもやればいいじゃないかと思います。理屈は簡単です。ちょっと考え方を変えるだけでいい。つまり未来に生まれる者たちに安心して生活できる環境をプレゼントして、彼らがニコッと微笑んでくれることを、ぼくたち自身の幸せにすればいいわけです。冗談っぽく聞こえるかもしれませんが、ぼくは本気でそう思っています。なぜなら人間とは、そういうことがやりたくてしょうがない生き物だからです。
 自分よりも他者の利益を、現在よりも未来の便益を優先させることを人間は知っている。自分たちの不利益を受け入れることで、未来に生まれる者たちを公正に扱い、彼らとのあいだに健全な関係を築いてこうとする。それを快と感じることができる。そうした自己のありかたを、ぼくたちは悦ばしいもの、快いものと感じることができる。なぜなら、それが人間にとって「自由」ということだし、「主体性」ということだからです。近代の文学者たちが追求したテーマを、現代に応用すると、そんなふうに言えると思います。


 最後に、今度出る本について、少しお話をさせてもらいます。7月にNHK出版から、『死を見つめ、生をひらく』という新書が出ます。この本で問いかけたかったのは、現在、ぼくたちはどのような自己を生きているのだろうか、ということです。そうした自分に耐えることができるだろうか。
 たとえば経済成長みたいなスローガンを、いまだに掲げる人たちがいます。しかし経済的に豊かになることで、もうぼくたちは幸せになれないのではないか。ぼく自身の実感から言えば、そんなことには飽き飽きしているし、いい加減疲れている。数年前に中国に追い抜かれたとはいえ、日本のGDPは世界第三位です。それだけの経済力をもちながら、ぼくたちはちっとも豊かさや幸せを実感できないでいる。だからさらなる経済成長をめざそうということになるのでしょうが、もともとめざしているものが間違っているのではないでしょうか。
 いま何がリアルかということを考えてみます。原発を稼働させないと日本の社会が行き詰ってしまう。そのことがリアルでしょうか? 国防軍をつくって軍備を増強しなければ、どこかの国に侵略されてしまう。そのことがリアルでしょうか? 全然違います。為政者たちはまったく見当はずれなことを言っているのです。そんなことよりも、たとえば経済格差を梃子にして大量のモノを消費しつづけることで、目に見えないところで誰かを虐げたり、誰かのものを奪ったりしているのではないか。取り返しのつかないまでに自然を破壊し、地球の環境を損なっているのではないか。そうした不安や懸念の方が、よほどリアルではないでしょうか。つまり自分の生きていることが否応なしに、不正で不当なことにかかわっている。そのことの不快感、嫌悪感……それがぼくたちにとってのリアリティだと思うのです。このリアリティをこそ、問題化しなければなりません。
 ぼくたちが幸せや豊かさを実感できないのは、現在の日本人の生活自体が、何かしら不正で不当な仕組みのなかに取り込まれているからではないでしょうか。また日本人が自ら、そうした生き方を選択しているからではないでしょうか。するとぼくたちがめざすべきは、経済成長や軍備増強ではなく、他者を公正に扱うことです。不正で不当なことにかかわっている自分から離脱することです。
 現に国内には、原発事故によって苦しむ人たちがたくさんいます。これらの被害者は、たまたま事故によって顕在化しただけで、原子力発電という技術を採用した社会においては、潜在的に生み出されていた被害者です。つまりぼくたちは潜在的に、誰もが被害者でありうる社会に生きていたし、いまも生きていると言えます。しかも事故や被害の実態はいまだに伏せられたままだし、国も電力会社も、被害者を積極的に救済しようとはしていません。そうした状況を、ぼくたちは結果的に等閑視し、放置することになっている。この不正さ、不当さを考えると、いまの日本の社会に灯っている電灯が、明るいわけがないじゃないかと思います。この社会の明るさはまやかしなのです。まして原発を海外へ輸出するなど、いったいどういう神経をしているのか。そんなことをやっているかぎり、ぼくたちが豊かになることも、幸せになることもありえないでしょう。
 原発から離脱することは、現在のぼくたちの生き方から離脱することです。不正で不当なことにかかわっている自分から離脱しようとすることです。経済成長や大量消費はいい加減に切り上げて、みんなで豊かに幸せに貧しくなっていく方法を考えるときではないでしょうか。そのことで他者を公正に扱おうとする。それは充分に、ぼくたちが生きるモチーフになります。誰でも、そうした生き方を望んでいるはずです。みんなこれをやりたくないわけがない。なぜならそこには、恋愛と同じモチーフが、同じ情動が流れているからです。恋愛と同じ喜びや充実感があるからです。しかも恋愛と違って賞味期限がありません。八十になっても九十になっても現役でありつづけることができる。とりわけ高齢化社会へ向かっている日本の社会においては、一つの未来イメージになるのではないでしょうか。
 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。
(2013.6.23 松山市愛媛大学)