特集

猫々通信⑭

憲法九条は私たちだけのものではない
                                      
憲法改正の機運が高まっている。改正の必要性も趣旨も充分に議論されないまま、改正のための手続きだけを簡便化しようという動きに強い懸念をおぼえる。たまたま現在を生きている私たちの、多聞に気まぐれとも言える判断によって、歴史上類を見ない憲法を変えてしまっていいものだろうか。そのような権利が、私たちにあるのだろうか。
 私は常々、憲法九条は日本国民だけのものではないし、現在を生きている者たちだけのものでもないと思っている。少なくとも、戦力の不保持と交戦権の否認を規定した非戦条項は、人間はどのようなものになっていくべきか、世界はどうあっていかねばならないか、という本質論や原理論に届いている。それは一国民の多数意見によっても奪ってはならないものである。
 自主憲法制定を主張する人たちがいる。現行憲法は敗戦後にアメリカによって押しつけられたものであるから。私はむしろ「押しつけられた」ものであること、自主憲法でない点が重要だと考えている。あの戦争では勝った方も、ただ勝って良かったと思ったわけではないのだ。百万を超える日本国民の死は言うまでもなく、五千万とも言われる犠牲者を出した大戦が終結し、勝った方も負けた方も、「もうたくさんだ」と心底から思った。そうした人類共通の思いが、一瞬の閃光を放ったものが憲法九条ではないだろうか。私たちの憲法は、一国の国民が任意に作ったものなどではない。だから貴重なのである。
 文章にすれば、たった数行に過ぎない。その数行のなかには、これまでに人類が生み出してきた死者たちの思いが凝縮されている。彼らの沈黙を聞き取らなければならない。憲法九条は、過去の死者たちから私たちが預かったものである。「押しつけられた」と言うのは勝手だが、押しつけた相手がアメリカというのは間違っている。押しつけたのは無数の無名の死者たちである。私たちには、それを損なうことなく、健全な状態で未来に引き渡す責務がある。
 その憲法九条の精髄は、あくまで戦力の不保持と交戦権の否認を定めた非戦条項にある。平和主義ではない。たとえば戦力不保持のくだりを、「自衛のための戦力を保持する」と改めるなら、現行憲法はなんの取り柄もないものになってしまうだろう。識者たちが指摘するように、平和条項をもつ憲法は世界中にたくさんある。現在ではほとんどの国が、平和主義を標榜していると言っていい。それらの国の多くが、普通に武器を輸出したり、戦争をしたり、紛争に巻き込まれたりしている。
 「主義」では意味がないのだ。現実に平和をもたらす力があるかどうか。戦後六十有余年の日本の歴史は、現行憲法が現実に平和をもたらしうるものであることを実証しているのではないだろうか。たんに戦争に巻き込まれなかったというだけではない。日本は戦後一貫して武器を輸出してこなかった。その一事をもってしても、憲法九条に定められた非戦条項によって、日本は世界平和に現実的に寄与し、現実的に貢献してきたと言える。
 いまのアメリカを見ると、自国が輸出した武器を手にした国と、つぎつぎに戦争をしなければならない状態になっている。軍事産業をはじめとして、戦争から利益を引き出すことのできた人たちだけが潤うという意味で、完全な軍事経済国家になっていると言っていい。そんな国に、私たちはつき従おうとするのだろうか。憲法九条を改正することは、日本が独立国になることではまったくなく、ますますアメリカという軍事経済国家への依存を深めることを意味している。その先に人類の理想も未来もない。
 累々たる屍の上に一輪咲いた花を、気まぐれに引き抜くようなことをしてはならない。理想と未来は、私たちが手にしている憲法の非戦条項のなかにある。これを単独ででも守っていこうとすることが、日本がアメリカやヨーロッパの枠組みを脱する、一つのきっかけになると思う。