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終戦

すべては、この言葉からはじまったのではないか。「敗戦」を「終戦」とすりかえることによって、さまざまな面で、戦後の日本の社会は損なわれてきたのではないだろうか。

敗北を認められないから、隣国へきちんとした謝罪ができない。過ちを犯したのなら、謝罪こそ新しい一歩であるはずだが、それをやらなかったために、過ちは正されることなく、曖昧なまま国民感情のなかに埋め込まれることになった。

負けを負けと認められないかぎり、戦力の不保持と交戦権の否認という条項がもつ、人類史的な意味も意義もわかるまい。だから憲法九条の改正を訴える首相が、景気回復への期待感から支持されることにもなる。日本人の関心が景気回復にしかないとすれば、早晩、日本という国は滅びると思う。

あらゆる敗北には理由や原因があり、多くの場合は責任を伴う。敗れたことを曖昧にして、誰も責任をとらない社会。敗れた理由や原因をうやむやにしたまま、いつのまにか元に戻ってしまう社会。そして敗れたことによって生じた生命、財産などの喪失は、救済されることなく放置される。幾度となく繰り返されてきたことが、いまもなお繰り返されている。

沖縄、水俣、福島……日本の社会は、救済されるべき同胞を、これまで一度として救済してこなかった。彼らの苦難を取り込むことができなかった。そうやって日本人は、自分たちを見捨ててきたのではないだろうか。今度は誰の番かわからない。同胞の受難に手を差し伸べないことで、ぼくたちは自分たち自身を見捨てつづけていると言える。

本来、敗北は力であるはずだ。自然との関係で、人間は負けつづけてきた。老いや死に、人間は勝つことができない。その自覚が、人間を今日まで歩ませてきたとも言える。震災と原発事故があり、いまこそぼくたちの敗北力が問われている。富士山もいいけれど、日本の社会が生み出した負の世界遺産に、もっと目を向ける必要があるのではないだろうか。