> 2013年7月の特集

真理

現在、癌のスタンダードな治療法とされている手術、抗癌剤、放射線は、いずれも見方を変えれば、身体に加えられる熾烈な暴力である。生きている人間の腹を切り開き、臓器の一部を切り取る。なんて残酷な! こうした血なまぐさい暴力が、刑事罰に問われないのはなぜなのか。

それどころかぼくたちは、医学的な暴力の前に、進んで自らの大切な身体を差し出す。さらに切り刻まれた肉体をベッドに横たえ、自分を切り刻んだ者にたいして、涙を流さんばかりに感謝したりもするのだ。おかしくないだろうか? おかしいのは、こんなことを考えるぼくの方だろうか。

たとえば癌検診で、医者から「癌です。手術をしましょう」と言われただけで、本人は痛くも苦しくもないのに身体にメスを入れる。当然だと言う人も多いかもしれないが、ぼくはそこまで他人を信用する気になれない。あるいは医学的な「真理」を信用する気になれない。なぜ、これほど真理に重きを置くのだろう。自分の身体的な実感よりも、医学的な見立てを優先することには、それほど確かな根拠があるのだろうか。

真理は歴史的なものである。言い換えれば、どんな真理にも賞味期限がある。人間の歴史を振り返ってみよう。過去はさながら死せる真理の墓場といった様相を呈していないだろうか。このことからすれば、現在、医学的に正しいと考えられていることが、いずれ死せる真理となることはほぼ確実である。癌治療のあり方にしても、百年後には、おそらく人々の眉をひそめさせるものになっているだろう。

しかしぼくを含めて、誰も真理の外に身を置くことはできない。それぞれの時代に、同時代の者たちを閉じ込める知識や認識の枠組みが存在し、その枠組みが、ぼくたち一人一人の自己を規定しているからだ。本当は百年後の人間の意見を聞けるといいのだが、そういうわけにもいかない。だから批判や思考が必要になってくる。思考とは、真理から距離を置く作業であり、現在から自由になることであり、百年後の人間や宇宙人の目で、自分たちを眺めようとすることである。