> 2011年11月の特集

カリフォルニア・シャワー / 福岡ウォーカー寄稿 レコードのある風景

その年、というのは一九七八年のこと。福岡は史上まれにみる大渇水に見舞われていた。ほぼ一年間にわたって、時間指定断水がつづいた。
当時、ぼくは大学二年生で箱崎に下宿していた。遊郭を改築したような下宿は、下水道の工事が終わって水洗トイレになったばかりだった。それがかえって災いした。大きなポリバケツに水を溜めておき、用を足すたびに汲んでは流す毎日だった。
断水は五月ごろからはじまり、ダムの貯水量を見ながら給水時間が決められていた。ひどいときには一日五、六時間しか水が出なかった。
自衛隊の給水車が出動したり、神戸あたりから船で水を運んだりと、市内はまさに戦時下のような状況だった。銭湯は時間を短縮して営業していた。
ぼくは大学の講義のない日を利用して、できるだけ混み合わない時間に出かけるようにしていた。
風呂から帰り、さっぱりした気分で『カリフォルニア・シャワー』を聴く……なんだか悪い冗談みたいだけれど。
戦後の日本のジャズを四半世紀にわたってリードしつづけた渡辺貞夫。常に音楽的に前進しようとする貪欲な姿勢や、門下から何人もの優秀なミュージシャンを輩出した点などを鑑みて、「日本のマイルス・デイヴィス」と呼んでも差し支えないだろう。
ボサ・ノヴァをフルートでセンシティヴにきめたかと思うと、アルト・サックスでチャーリー・パーカーばりのインプロヴィゼーションをかまし、アフリカ旅行から帰ってくるや、現地で入手したとおぼしき珍妙な民族楽器を若手ミュージシャンに持たせ、ご本人はソプラニーノでエスニックなメロディを奏でて悦に入っておられる。まったく大した人だった。
そのナベサダがフュージョンに転身し、大ヒットを飛ばした一枚。たしかタイトル曲はCMにも使われた。このアルバムによって、それまで小さなジャズ村の村長さんだった彼は、一気に全国区に打って出る。音楽監督はデイヴ・グルーシン。『卒業』などの映画音楽をやっていた人である。ストリングスなども使ったアレンジは、洗練されていてゴージャスだ。バックを固めるのは、リー・リトナー、ハーヴィー・メイソン、チャック・レイニーといった西海岸の一流ミュージシャンたち。演奏はどこまでも明るく軽快。遊郭を改築した下宿で聴いても、気分はカリフォルニアなのだった。
あの渇水の夏、一枚のレコードは、いつ終わるとも知れない断水のことを忘れさせ、ひとときのオアシスへ連れて行ってくれた。