ブログ

猫々通信⑥

 今日、ぼくたちが生きることは相対性のなかにしかありません。唯一の真理、絶対的に正しいものは存在しない。無数の相対的な真理が存在するだけである。死についでも同じことが言えます。死とはこういうものであるとか、死後はこうなるといった、誰もが受け入れることのできる共通の了解事項がないのです。その意味で、死はわからなくなっていると言うしかない。
 死がわからないということは、生がわからないということです。死がどこにもない、死にたいする答えがどこにもないということは、生がどこにもない、生にたいする答えがどこにもないということでもあります。何を信じて、何を目指して生きればいいのかわからない。自分という人間がどうなっていけばいいのかについて、明確なヴィジョンをもつことができない。せいぜい大きな病気をせずに長生きして、最後は苦しまずに死ぬ、という以上のことが思いつけない。
 これはたいへん心細い、不安定なことですけれども、一方では自分の人生をより主体的に、自律的に生きる契機にもなりうるかもしれない。そう考える方がいいような気がします。ぼくたちは生にたいする答えを出すことによって、死にたいする答えを出そうとしているのではないか。いかに生きるかを通して、死に少しずつ明確なかたちを与えようとしているのではないか。もはや死は、そのようにして一人一人が定義する以外にないものになっているのではないか。
 いまでは誰もが、無神論の場所からしか出発できなくなっています。ぼくたちの世界では、神を前提とすることが、すでに一種の踏み外しなのです。神は最初に前提されるものではなく、もしあらわれるとすれば、ぼくたちの生涯の最後の瞬間にあらわれると言うべきでしょう。少なくとも、この相対化された世界で、誰にでも了解されうる神とは、そのようなものとしてしか想定されません。
 ぼくたちは一人一人が、その生涯を通して神の存在証明をやっていると言ってもいいかもしれません。否、それを「神」と呼ぶことは、もはや適切ではないでしょう。その何かは、あくまでその人に固有のものであるからです。何があらわれるかは、その人の人生を、その人なりに最後まで生きてみないとわからない。強いて言うなら、一つ一つの生涯のなかで培われてくる固有の価値に応じたものがあらわれる、と言うべきです。
 ぼくたちはなんのために生きているのか。自分の死に、「出発」というニュアンスを与えるためだと思います。出発するための外部は、あらかじめ失われている。どこへ向かって出発するのかは、誰にも言うことができない。だからこそ、ぼくたち一人一人が生涯を通して生み出していく価値が大切なのだと思います。この固有の価値が、一人一人の死にふさわしい方向性を与えてくれるはずです。