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あの本、この本⑧

 『前キリスト教的直観』は、間違いなくヴェイユの思想の根幹をうかがうことのできる文献である。ギリシア神話やプラトンの註解という体裁をとっているせいか、『カイエ』から編集された『重力と恩寵』ほどエキセントリックなところはなく、しかも充分にラディカルなことが言われている。ときに逸脱や踏み外しの見られる『重力と恩寵』よりは、むしろ説得力がある気がする。全体をうまくまとめることはできそうにないので、気ままな感想を覚書として書きとめておくことにする。

1.「わたしたちのうちの愛は、自らが根源的に不完全であるという感情であり、原罪に由来し、充溢した状態に戻りたいという存在の根源から発する欲望である。」(51)
 一個の孤立した「私」であることを、ヴェイユは人間の原罪ととらえる。これは二つの構造としてあらわれる。すなわち自己と他者、個と類である。このような構造のもとで、ぼくたちが一人称で思考するとき、他者にたいして「愛」という感情が生まれ、個と類の矛盾から「死」という錯覚が立ち現れる。
 ヴェイユにとっての信仰とは、神への遡行、創造以前に遡ることを意味している。こうした遡行を可能にしてくれもの、その契機が「愛」であるされる。また死は「自己」を中心とした一人称の思考の、いわば遠近法がもたらすもの(錯覚)だから、遠近法そのものを解除することができれば、死は乗り越えられたことになる。

2.「一人称で思考するかぎり、わたしたちは必然性を下方から、内側から見ている。地表や天蓋のように、必然性はわたしたちをあらゆる部分から包み込む。必然性に同意し、一人称で思考するのをやめるならば、わたしたちは必然性を上方から、外側から見るようになる。というのも、わたしたちは神の側に移っているからである。」(179)
 とても象徴的な言い方だが、一人称で思考するという遠近法の解除と、死を乗り越えることが言われているように思う。

3.「一人称で思考する能力すべてを真の意味で放棄することによってのみ、すなわち、単なる移し替えではないこの放棄によってのみ、わたしたちは他人が自分と同じ人間であることを知る。」(164)
 ここでヴェイユが「一人称で思考する能力すべてを真の意味で放棄する」と言っているのは、自らの死に同意することであると思われる。「この放棄によってのみ、わたしたちは他人が自分と同じ人間であることを知る。」
 どうして「人間」という概念が成り立つのか。それは人間が、死という絶対的平等のもとに結び付けられているからである。そのことだけが人間を「人間」にしている。「人間」は一つの生物学的な種などではない。死を認識し、死者を悼み、自らの死を恐れる。そのことによって人間は「人間」たりえている。人間は最初から最後まで精神的な存在である。

4.近代的な意味で「一人称によって思考すること」と確立したのはデカルトである。彼は世界認識のなかに「私」を視点とする遠近法を持ち込んだ。それによって世界は「自我」というフレームによって切り取られる。デカルトの神は、経験的世界を理性的に認識していく果てにあらわれる、人間の認識の対象とされた神である。合理化された無神論的な神であり、実質的には神の否定、神の超越性の否定であると言っていい。
 これは神を中心にしたキリスト教的な世界観からすると、天動説から地動説への移行と同じくらい大きな知のパースペクティブの転回であった。この転回から、近代のヒューマニズム(人間中心主義)は生まれた。それは創造者としての神にたいする被造者としての人間という、旧約聖書的な世界観からの脱却をも意味している。以後、ヨーロッパ世界は人間の自主性と自律性の確立へと向かう。
 神の恩寵によって保証された永遠性や普遍性は、もはや人間のなかにはみとめられない。人間の人間性は歴史的、現実的な社会のなかで実践的に獲得されていくもの(→マルクス)となる。また人間の善性とは、われわれが無条件に保有しているものではなく、誤謬や悲惨や不合理を克服して手にしていくもの(→ドストエフスキー)となる。

5.「一般にエゴイズムと言われているものは、自己愛ではない。それは遠近法のもたらす結果である。自分のいる場所から見える事物の配置が変わることを人は悪と名づける。……人間は有限である。だから正しい秩序の観念を、自分の心情の近いところにしか用いられないのである。」(84)
 ヴェイユにとって遠近法を乗り越える道は、一種の「自己放棄」であり、それは彼女の信仰とかたく結びついている。マルクスは人間の労働の類的性格のなかに、こうした遠近法を乗り越える道を模索した。「共産主義」という誤解にまみれた言葉は、本来、そこから出てきたものだ。

6.アンチゴネー「わたしは憎しみをわかち合うために生まれて来たのではありません。愛をわかち合うために生まれて来たのです。」クレオン「さあ、それならあの世に行くがよい。愛する必要があるならば、あの世の者どもを愛すればよかろう。」
 ソポクレスの悲劇に、ヴェイユは人間の愛が相対的(不完全なもの)であることを見ている。愛する者はあらかじめ奪われている。二人のあいだには潜在的に死の暴力が介在している。「わたし」と「あなた」は死を介して構造化されている。だから人を愛することにおいて、人は不完全な存在であるほかない。このことが人を神への「愛」へ向かわせる契機としてとらえられる。

7.若いハンナ・アーレントが同じようなことを書いている。「たえず死に脅かされている生は、生とはいえない。なぜなら、そのような生は、存在するものが失われる危険にたえずさらされており、それは確実にいつの日か失われるからである。……地上に属する生とは、生きながらえの死、ないしは死すべき生、すなわち死の定めの下に立たされた生にほかならない。……何も失うことがあり得ないところには、恐れなき所有の確かさがある。愛(アモール)は、こうした恐れのない状態を追い求めるのである。」(『アウグスティヌスの愛の概念』)ここから神(外部)との関係が導出される。「人間は自らの存在において、自己の外部の何かに依存している。」(同前)このあたりがヨーロッパ的、あるいはキリスト教的思考の原型かもしれない。

8.この世界の外にある対象を、ヴェイユは「神」と呼んでいる。しかし現在では、「神」という言葉を公的な場所(客観的な世界認識の場所)で使うことは踏み外しとみなされる。「外部」という言葉さえ、憶見を交えずには使えないものになっている。合理主義に馴染んだ思考のなかで、「世界の外」を想定するは非常に困難である。
 誰もが無理なく言えることは、「出発」ということではないだろうか。「神」という言葉も「外部」という言葉も禁じられたぼくたちは、辛うじて「出発」と言うことしかできない。どこへ向かって出発するのか。誰のもとへ出発するのか。各自が色付けするしかない。

9.神の存在証明の問題に、一応の決着をつけたのはカントである。『純粋理性批判』において彼が明らかにしたことは、神の存在を証明することはできない、ということだった。「神」と呼ばれる絶対者が存在するか否かは、合理的な説明や論証の対象とはならない。人間の理解を超えているからこそ、それは「神」と呼ばれる。
 このことは現在の客観的世界のなかに、神の住まう余地がないことを意味している。ぼくたちは合理的なものを客観的なものとみなしている。それが公的に認められている世界の在り方だ。つまり「神」は先験的なものではなく、いわば一人一人の人間が経験的に、自らの生から導き出さなければならないものになっている。

10.「性差は、わたしたちの本質的な欠陥であるこの二元性の感覚的なイメージにすぎない。肉的結合は誤った救いのあらわれである。だが、二元性を超えたいという欲望は、わたしたちのうちなる愛の表徴である。……わたしたちの不幸である二元性は、愛する人と愛される人、認識する人と認識される人、行為の内実と行為する人が分離しているということだ。」(51)
 身も蓋もないことを言うヴェイユ。とても面白くラディカルだが、ぼくたちが違和感を抱くところでもある。一個の孤立した「私」であることを、ヴェイユは人間の原罪ととらえる。こうした分断という状態にある人間がわかちもつ構造の一つが「性」であり、それは根源的な人間の罪を見ない「感覚的なイメージ」であるとされる。
 しかし彼女が「不幸」と名づける二元性は、ぼくたちの生を駆動させている原理そのものでもある。善良さが駆動するためには対象を必要とする。つまり「認識する人と認識される人」が分離している必要があるのだ。ぼくたちは誰かと出会うことによって、その人に向かって善良な心が開きはじめる。美も同じである。何かに触れることによって、「美しい」という感覚が生まれてくる。二元性にとらわれていることが、ぼくたちの生を豊かで喜びに満ちたものにしているとも言える。

11.ヴェイユが言及する「神」も「愛」も、とても静的な感じがする。それは彼女が二元性の解消を一性に求めているからだろう。ぼくたちが目指すべきは、むしろ二元性を複数化することであり、一性ではなく多数性ではないだろうか。「わたし」を「神」へ回収するのではなく、「神」を一人一人の「わたし」のなかへ複数化していくこと。各自が神を定義すること。自らの生から神を導出すること。
 「神」という言葉がやって来るかどうかは、その人の人生を、その人なりに生きてみないとわからない。個人の経験が集積して、「神」としか名づけようのないものと出会ったとき、はじめて「神」という言葉は持ち出されるべきだろう。また、そのような神でなければ、ぼくたちを本当に支えてくれるものにはならないと思う。

12.「数学的必然性は、人間のあらゆる自然的部分と人間のうちなる無限小の一点との媒介となる。人間のあらゆる自然的な部分は、肉体的・心理的な素材からなっており、人間のうちなる無限小のかけらは、この世界に属していない。」(173)
 とても気になることが言われている。「人間のうちなる無限小の一点」や「人間のうちなる無限小のかけら」という言い方で、ヴェイユは人間にとっての「神」の場所、「神が在る」ことの可能性を指し示そうとしている。この無限小の場所へ向けて自己を同致させていくことが、彼女にとっての信仰を意味している。自己を無にすることと言っても、放棄することと言っても同じだ。
 ヴェイユが言う「無限小の一点」とは、いかなる合理的な思考も手を触れることのできない部分であり、いかなる力との接触も免れている部分である。このような一点が、無限に小さな領域として人間のなかにある。人間は無限に小さな一点において、外部に開かれている。この無限小の一点が、死に臨んで「出発」を可能にするのかもしれない。きわめて重要なところだ。

13.「自分で自分を破壊することは、人間がなしうることではない。真の応答は、破壊される可能性に対して同意するということだけである。」(174)
「この無関心性に倣うとは、ひたすらこの無関心性に同意することであり、避けられる可能性とその義務のある悪を除いて、悪も含め、あらゆる存在を受け入れることである。」(176)
「必然性とは、わたしたちの自然的な部分と、自由に同意する無限に小さな能力との媒介にほかならない。」(177)
「必然性は、物質と神とを媒介する。」(178)
「わたしたちが自由であるとは、神に従順であらんと欲することにほかならない」(179)
 いずれも難解な箇所だが、言われていることは同じだろう。ここで「無関心性」や「必然性」と言われているものは、「死」と置き換えていいと思う。死は人間のなかを貫徹している必然性が、もっとも強度に立ち現れたものである。そうした死に、ぼくたちは最終的に同意することしかできない、無条件に受け入れるしかできない。そこに「神」へ至る道がある、とヴェイユは言う。
 死に同意すること、死を受け入れること。同意しがたいことに同意する。受け入れがたいことを受け入れる。なぜ、そんなことが可能なのか。それは人間に、不合理なことをあえてなす能力があるからだ。その能力は、現実に存在する必然性の世界を超越したものであり、神への信憑として、人間の究極的な自由を意味している。
 この部分は神学的な言葉を使わずに、いくらでも読み換えることができると思う。とても大切なことに気づいているヴェイユ。でも、それをうまく表現しえていない。宗教的な文脈を外れたところで、もう少しうまく言えるのではないか。ぼくは「出発」という言葉で、ヴェイユが言おうとしたこと、考えようとしたことに汎用性をもたせたい。

14.「愛(エロース)は愛されない」(120)恐ろしい真理をさり気なく口にするヴェイユ。愛の人でありつづけたイエスが、どのような最期を迎えたかを思い起すなら、「愛は愛されない」という冷酷な真理が現実味をもってくる。
 愛にはどこか忌まわしいところがある。それはヴェイユが言うように、愛には人間を超えた側面があるからだろう。人間は自分たちを超えたものを憎む。愛する者であろうとすることは、自らを滅ぼそうとすることだ。それは一種の狂気である。理性の信者であるぼくたちは、愛する者であるかわりに力を行使する者になろうとする。愛について語るかわりに、力について語ろうとする。

15. 「力は、人間の魂のあらゆる自然的部分、魂が内包するあらゆる思考や感情を含めた自然本性すべてにわたって絶対的な権限を有している。だが、力は同時に、絶対的に軽蔑すべきものである。こうみなしたのは、ギリシアの偉大さにほかならない。」(60)
 いかにして力の働きを解除するか。いかにして人間のなかに力の及ばない領域を作り出すか。それがヴェイユにとって、いちばん大きなモチーフだったと言っていい。

16.「キリストは、その生涯を通してほとんど威信をもたなかった。……ある意味では殉教者ですらなかったと言うほうがいっそう真実である。……殉教者には威信が貼りついている。」(89~90)
「実在の正義は、正義と認められることと不正義と認められることとに等しく覆い隠されている。実在の正義がモデルの役割を果たすならば、それは、裸のままで、正義と認められることなしに見られねばならず、正義と認められることをともなわずにあらわれねばならない。……わたしたちが近づきうるのは正義と認められることだけであり、それは威信であり、力の王国に属している。……わたしたちの王国は必然性の王国である。正義と認められることはこの世界に属しているが、実在の正義はこの世界に属していない。」(96~7)
 いずれの引用も、この世界のなかで善や正義をなすことの困難さを言っている。たとえば飢えや貧困で苦しんでいる人々をなんとかしたい、暴力や弾圧に苦しむ人々を解放したい。そうした善意や正義に基づいた行為も、やはり限定的な力の行使であり、威信を身にまとうことになってしまう。だからこそ、それらの行為はしばしばテロを誘発してしまうのではないだろうか。テロの矛先は「正義と認められる正義」に、威信を身にまとうことに、正確に向けられていると考えるべきである。
 世界にコミットすることの難しさ。この世界で何か具体的な行動を起こすことは、いくら善意や正義感によるものであっても、かならず既存の力に加担することになってしまう。自らが力を行使する者になってしまう。善や正義とは別の回路で、世界とコミットする方法を見るける必要があるだろう。簡単に答えを出さないことだ。「自然再生エネルギー」などという、都合のいい答えに飛びつかないことだ。根源的な問題であればあるほど、答えは容易には得られない。答えがない状態に耐えることが、いまはとても大切だと思う。

17.「力を操るにせよ、力で傷つくにせよ、力との接触は人間を硬直させ、人間をモノに変えてしまう。」(61)
 これはマルクスが「疎外」と名付けた状況そのものだ。人間は力をもって自然と接触する。自然に働きかける。それは自然をモノとして扱うことだ。同時に、力を行使する人間もモノと化していく。同様に、人間は力をもって他の人間に働きかける。そうして相手を手段とすることによって、自らも力を行使する機械めいたものになっていく。
 様々な力を行使せずに、人間は生きて行くことができない。だから「力の威力を知りながら力を軽蔑するという二重の認識」(60)が必要なのだ。この認識からモラルが生まれてくる。しかし現在の世界では力の行使を行使することは是とされているので、どのようなモラルも根付かない。機能しているのは、効率よく力を行使するためのルールだけだ。
 いかにしてモラルを構築していくか。信仰の力によらずに……それがぼくたちの最大の課題だと思う。

18.「わたしたちにとってモノは、必然性に従属しているものにすぎない。……一人称で思考するかぎり、必然性は人間の敵である。……必然性の条件的な性格ゆえに、人間が追求しているいくつかの目的との関係において、必然性は障害であるのと同時に手段でもあるものとしてあらわれ、人間の欲求と宇宙の必然性のあいだに、ある種の平等性が見られる。……超自然的な徳の自然なイメージを社会生活のうちにできるだけ呼び覚ますこと」(170~1)
 多くのことが言われている。ここで使われている「必然性」という言葉は、ヴェイユの思想に引き寄せて言えば、「宇宙に貫徹している神に摂理」というほどの意味になるだろう。人間は生きていくために、労働を介して様々に必然性(自然)を利用する。そのかぎりにおいて、人間の欲望と宇宙の必然性は均衡している。それは神の摂理を受け入れるという意味で、超自然的な徳にも調和している……。
 こうした解釈は、ヴェイユにたいして親切すぎて、あまり面白くない。ぼく自身のモチーフに引き寄せるなら、必然性を「死」と置き換えたいところだ。
「わたしたちは肉体をもち、必然性のうちにとり込まれている。」(66)たしかに人間にはモノ(自然)としての側面があるから、その点では必然性に従属している。こうした必然性が、もっとも強度に立ち現れるものが死である。それは一人称で思考するかぎり「人間の敵」として立ち現れる。一人称としての「自己」を考えるかぎり、死はすべての終わりでしかない。
 本当にそうだろうか? 自己の死について徹底して考えること。そこから一人称の思考を脱構築できるのではないか。それは新たなモラルを構築することでもあるだろう。

19.「必然性とは、選択の余地がないこと、無関心であるということである。だが、必然性は共存の原理である。そして根源的には、わたしたちにとっての思考の正義とは、実際に存在するすべての人間、すべての事物と自分との共存を受け入れることである。」(182)
 死すべき存在としての人間ということが言われているように思う。死は人間にとって必然であり、選択の余地がない。また死からすれば、人間にたいして無関心である。この死が「共存の原理」である。(覚書3を参照のこと)

20.「わたしたちはまことに不完全な存在であり、暴力によって切断されている。切断された断片は永遠にその片割れを渇望している。……この片割れはわたしたちに類似のものではありえない。この片割れは善であり、神である。……神への愛はわたしたちのうちにある。それはわたしたちの存在の基盤そのものである。もしわたしたちが神以外の者を愛するならば、それは誤りであり、人違いをしたのである。」(80)
 ヴェイユの使う「神」という言葉は、いつもぼくたちに違和感を抱かせると同時に、どこか「間に合わせ」という感じを与える。もっと別の言葉を使いたかったのではないか。『アガメムノン』についてヴェイユはつぎのように書いている。
「ゼウスの固有名は知られていない。……名づけることで偽りの神に到達しえても、真の神には到達しえない」(22)
 ヴェイユの使っている「神」という言葉も、このようなものだったのではないか。彼女が「神」という言葉で触れようとしているのは、「神」という言葉によっては到達しえないものではないだろうか。

21.「数学は、感覚的な諸事物と神の諸真理の映し(イマージュ)を統括する必然性の総体を包み込んでいる。……ギリシア人は数学のうちに啓示を見る権利を有していたのである。今日わたしたちはもはやこのことを把握しえない。なぜなら、絶対的に確実なものは神の事柄にのみ適っているのだ、という考えを失ってしまったからである。わたしたちは物質的な事柄に対してのみ確実性を求めている。」(151)
「神の慈悲は数学を単なる技術に貶めはしない。」(152)
 信仰と切り離された科学は物質的な事柄にたいしてのみ確実性を求める。そこで得られる確実性の言葉は虚偽なのだ、と言っているように読める。
 その一方で、ギリシアの哲学者たちにたいするヴェイユの絶対的な信頼は、いまとなってはナイーブ過ぎる気がする。ギリシア、キリスト教、西欧の思考のなかに、たとえば原子力を否定しうる要素は何もないと思う。その意味で、ピタゴラスから原子力までは一直線だったのではないか。
 ウェイユは人間と自然を媒介するものとして数をとらえている。そこには神の摂理が働いている。数を扱うことも、数学を手段として自然と触れることも、神の摂理を読み解いていくにつながる。それは愛の働きとしての美と密接にかかわっている。そのかぎりにおいて、人間と自然は調和的である。人間は自然から離反していない。こうした無邪気な自然観、自然への人間中心的な介入が、現在の科学文明を生み出したのではないだろうか。
 人間の理性(ヴェイユの言い方をすれば「一人称の思考」)が行き詰まっていることは明らかだ。この行き詰まりをヴェイユは信仰によって、神への筋道をつけることによって打開しようとしている。たしかにキリスト教(カトリック)は、ヒューマニズムや社会主義にたいする根本的な批判としてラディカルな側面をもっている。それは神との関係において成り立つキリスト教信仰が、人間のあるがままの在り方を、けっして直接的には肯定しないからである。自己の幸福の追求ということにたいしても、キリスト教はときに否定的な立場をとる。
 キリスト教が人間にたいして、いまだに鋭い批評性をもっていることは確かだ。その一方で、人間の歴史において、信仰から理性へという道筋は必然だった。つまり逆戻りはできない。理性が根づいた世界で、信仰が再び力をもつことはありえない。それは人間が自然へ戻れないのと同じだ。力を行使する者としての人間が行き着いたのが原子力である。自然への回帰(エコロジーや自然との共生)によって、この力を無効化することはできないだろう。人間の理性を信仰の状態に戻すことができないように。
 理性の先にあるものを目指さなければならない。それは「一人称の思考」をより強度に、徹底的に推し進めることで、見えてくるのかもしれない。
【シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』今村純子訳・法政大学出版局】