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猫々通信⑧

 吉本隆明さんが亡くなった。いつかこの日が来ることはわかっていたし、それなりに覚悟はしていたつもりだったけれど、やはり唐突で不意打ちという感じを免れることはできなかった。翌日は、なんとなく吉本さんの本を整理して過ごした。年代順に並べてみると、ぼくのように中途半端な読者でも二百冊以上ある。主著は入っているはずだが、洩れているものも多いだろう。
 膨大な著作群のなかで探求されている、巨大な思想の全貌をとらえることは、とてもぼくの手には余る。文学、国家、政治、宗教、経済、古典、文化と、ほとんどあらゆる分野にわたって継続された論考を整理して概観することも、いずれ適任の人たちがやってくれるのを待とう。いま語りたいのは、ぼくにとっていちばん関心のある問題である。
 『言語にとって美とはなにか』をはじめとして、吉本さんの言語論の中心をなすのは「言語の根幹は沈黙である」という考え方である。人間は沈黙のうちに思考したり、感じたり、悩んだりしている。つまり沈黙は、自分の自分にたいするコミュニケーションという面をもっている。こうした目に見えない心の動き、沈黙のうちに込められている人間性や精神性を、吉本さんは「自己表出」と名づけ、文学をはじめとする芸術言語の本質とみなした。これにたいして情報の伝達手段としての言語、言語のコミュニケーション的な面を「指示表出」と名づけた。
 たとえば葬儀で読まれる、どんなに心を打つ弔辞よりも、遺族の沈黙の方が価値としては大きい。このことは無条件に言えると思う。折口信夫や白川静が述べているように、『万葉集』に収められた歌の多くは鎮魂歌として詠まれたものだ。とくに古い時代のものほど、その傾向が強いとされる。つまり三十一文字に切り詰められた短歌は、発生点において、遺族の沈黙と非常に近い場所で表出されたものであったと言うことができる。この点を押さえておかないと、言語芸術として短歌や俳句を正当に評価することはできない。限られた文字数のなかで詠まれる短歌や俳句は、たしかに指示表出として見ると貧弱なものだ。しかし「自己表出」の凝縮されたものとして読むなら、短歌や俳句の芸術的価値は、長編小説などとくらべていささかも劣らない、と言うことができる。
 このことは文学作品の価値が、ストーリーや物語性といった、情報的な部分にないことを意味している。読みものとして面白い小説は、一つの文芸作品として、工芸品的によくできているのであり、その文学的価値や芸術的価値はまた別に考えられねばならない。理想を言えば、面白くて芸術的価値のある作品を書ければいいのだが、そこには作者の精神性や思想性、さらには資質などが関与してくるため、なかなか難しい。
 とりわけ明治以降の日本の近代文学は、私小説に代表される純文学と、大衆文学とが分離したまま推移してきたという、不幸な歴史をもっている。ヨーロッパ文学の場合は、かならずしもそうではない。バルザックでもスタンダールでも、トルストイでもドストエフスキーでも、芸術的価値の高いとみなされているものは、面白さとしても傑出しており、純文学と大衆文学の乖離はさほど見られない。それどころか純文学にして大衆文学であったものが、今日まで多く残りつづけていると言える。演劇の分野で、いまでもシェークスピアやチェーホフが頻繁に舞台にかけられるのも、彼らの作品が芸術性と大衆性を兼ね備えているからだろう。
 ヨーロッパの近代文学においては、傑出した「指示表出」が、作者の「自己表出」に裏打ちされている場合が多い、と言うことができるのかもしれない。言い換えれば、彼らの「指示表出」は、常に「自己表出」の表現という側面をもっており、沈黙をいかに表現するか、という課題に応えようとしている。それは19世紀の心理小説にも言えるし、さらに顕著な例としてはプルーストの『失われた時を求めて』をあげることができるだろう。
 人間が個々に抱えている沈黙をいかに表現するか。この難問に、もっとも果敢に挑戦し、また成果を上げ得るだけの才能に恵まれていた作家として、ここではドストエフスキーを取り上げたいと思う。たとえばイワン・カラマーゾフのような人物には、必死で頑張れば、自分にも書けるかもしれないと思わせるところがある。たしかに「反抗」や「大審問」は、そこだけ取り出しても読みごたえのある短編小説になっており見事だが、思考のパターンや語彙はインテリのものであり、「及びがたい」と感じさせるほどではない。ところが父親のフョードルに出てこられると、自分には到底書けない人物だと引き下がるしかない。これほど下品で魅力的な人物、俗悪のきわみにありながら、無邪気さと狡猾さにおいて聖性すら感じさせる複雑で振幅の大きな人物を、いったいどうやれば言葉をもって出現させることができるのか、謎である。丹念に読んで、いくらかコツは呑み込んだつもりでも、実際にはとても書けない。
 しかし同じ小説を書く者として、ぼくが『カラマーゾフの兄弟』のなかでもっとも震撼させられる人物は、スネギリョーフという貧しい退役二等大尉である。といっても、すぐには思い当らない方も多いのではないか。肺を患って亡くなるイリョーシャ少年の父親、酒に酔ったドミートリーによって公衆の面前で辱めを受ける男、と言えば少しは思い出されるだろうか。この貧しさと卑屈さに染まりきった男が、アリョーシャを相手に自分の胸の内を語る場面がある。それは虐げられた貧しい退役二等大尉にふさわしい言葉、またそのような人間だけが口にし得る言葉で語られる。
 そこでぼくたち読者が立ち会っているのは、普通ならけっして発せられることのない言葉、黙したまま歴史の闇に消えて行かざるを得ない言葉が、一人の作家によって沈黙から救い出される瞬間である。『罪と罰』のマルメラードフをはじめとして、こうした人物をドストエフスキーはじつに豊かに描いている。彼らはみんな言葉をもたずに生まれ、貧しさのなかに生き、そして黙したまま死んでいくべき人たちだ。その内面に一人の作家が言葉を与える。すると彼らはにわかに輝きを帯び、生き生きとして立ち現れ、ぼくたちに忘れがたい印象を残す。彼らが沈黙という内面に抱えている感情、絶望や苦悩や諦観、そして小さな喜びや希望が、読む者の心を打つのだ。
 スネギリョーフにしてもマルメラードフにしても、いわゆる社会的弱者であり、酒を飲んで自虐的な愚痴をこぼすしか能のない人間である、とも言える。このような一見、無能で劣等な者たちが、ひとたび心を開くなら、そこにはどんな聖人たちにも劣らない精神的な苦悩や葛藤が秘められている。そうした苦悩や葛藤の大きさだけが、ドストエフスキーの小説のなかでは「価値」とみなされている。つまり彼らは指示表出性において無能や劣等とみなされても、自己表出性においては無能でも劣等でもない。他のどんな人間とも変わることはない。そうした人間的な「価値」をもった者として描かれている。ドストエフスキーの文学を、本来の意味で「ヒューマニズム文学」と呼びたくなるのは、こういうところなのだ。
 コミュニケーションとして役に立つか立たないか、という機能的な面でのみ人間を評価するなら、人間の世界はどんどん悪いものになっていくだろう。役に立たないことの価値をぼくたちは知っており、そのことが人間の人間性の根幹を形作っている。自己表出性、すなわち沈黙としての言語という面から見るなら、病人も障害者も老人も死者も、まったく同質であり「平等」である。そのことを理解し、共感しうるところに人間の人間性はある。人間の本質とは、「無価値の価値」であると言うこともできるだろう。
 以上のようなことを、文学は徹底して主張しつづけなければならない。それだけが文学の存在理由であると、ぼくは考えている。