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猫々通信⑨

『静けさを残して鳥たちは』について                                     
 現代の日本の社会では、いろいろなものが速いスピードで変化しています。たとえば都市では、古い建物が壊され、つぎつぎに新しいマンションや商業施設などが建っています。そのため十年くらいで、街の景色がすっかり変わってしまうこともあります。あるいはパソコンや携帯電話のような、新しい製品が登場して、人々の生活スタイルを、一昔前とすっかり変えてしまうということも起こっています。
 また金融市場の影響力が大きくなることによって、経済そのものが投機的な、ギャンブル性の高いものになっています。そのことが日本の社会に、これまでにはなかったほど大きな格差や貧困を生んでいます。経済の不安定さは、政治や教育、社会保障などにも影響を与えています。
 このような社会に生きていることは、ぼくたちの心や精神にも深い影響を与えていると思います。善も悪も嘘っぽく感じられる。恋愛も仕事も、かりそめのものに感じられる。自分の思考や感情が、どこか外側からコントロールされているような気がする。自分自身が確かなものと感じられない。自分の人生に信頼をおけない。
 この小説の主人公たちも、自分の人生を確かなものと感じることができずにいます。ひょっとして自分は、誰か別の人間の人生を生きているのではないか? 主人公の一人である白江の失踪は、そのような意味を帯びています。また彼を取り巻く人物、たとえば学生時代の友人である青柳も、やはり自分の人生を偽物のように感じています。青柳の幼馴染である黒岩にいたっては、実際にイタリアで絵画の贋作に手を染めていたらしい。最初は接点のなかった白江と黒岩がつながることによって、ストーリーの全貌がおぼろげに明らかになってきます。そして彼らがそれぞれに、自分の本当の人生を探そうとしていることがわかってくるのです。
 この作品を書き上げるのに三年かかりました。そのくらい時間をかけないと、日本という不安定で流動的な社会のなかで、自分の仕事に確かな手ごたえをもてないと思いました。長い時間をかけたために、小説も長くなりました。舞台は東京、ローマ、パリと変転します。五人の主要な登場人物をめぐる物語です。作者自身が混乱しないように、五人にそれぞれ陰陽五行の五色から名前をつけました。白江、青柳、黒岩、赤沼という具合です。
 しかし「黄」という文字を使った名前は、日本にはありません。そこで苦肉の策として、黄だけは日本で暮す中国人という設定にしました。おかげで横浜や長崎の中華街、日本に帰化した中国人の歴史、周恩来の時代の日中の交易などについて調べることになりました。ゆかりのある作品が、中国で翻訳出版されることを、とてもうれしく思っています。
(『静けさを残して鳥たちは』2010年。文藝春秋社刊)