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なぜ愛について語るのか


 昨年、『愛について、なお語るべきこと』という小説を上梓しました。自分でもちょっと恥ずかしいタイトルだと思っています。いい歳をして、なぜ「愛」なのか。もっと他に語ることはないのか。たしかに。ぼくも五十四なわけだし、そろそろ断捨離の境地であるとか、前立腺肥大の問題とか、仏像を見てまわる話とか……について語るのがふさわしいお年頃。しかし今回、なぜかまたもや「愛」なのです。
 ぼくたちの社会において、愛は微妙な立場にあります。まず知的な人は愛について語らない。知識に興味のある者ほど、愛にまつわる諸々のことを敬遠する傾向にある。いまや愛は未熟さや幼児性の象徴である、とさえ言えるでしょう。とくに近代主義者たちは、愛を人間のロマン主義段階とみなす傾向にあります。愛などという不確かなものは、権利や義務といった法的関係によって置き換えられるべきである。そういう方針で社会をつくろうとしてきた。
 その結果、日本のような近代化した社会では、愛は白い目で見られる。いや、白い目でさえ見られていない、と言うべきでしょう。できれば見なくない。なかったことにしたい。人類誕生以来、人間は愛などなしでやってきたし、いまもやっている。善良な市民の皆さんは、そう考えたがっているふしがある。一人が愛について語りはじめた途端、まわりの誰彼が気まずい思いをする。愛はその場の空気を、一瞬にして居心地の悪いものに変えてしまう。人々は苛立ち、ときに冷笑を浮かべながら、目を背けたり、耳を塞いだりする。これがぼくたちの生きている社会です。まさに愛なき社会。
 かくも困難な状況において、愛について語ろうとすることは、ほとんどミッションに等しいと言っていいでしょう。どんなミッションにも困難は付きまといます。とりわけ愛を語ることには、多大の犠牲や代償が伴う。愛について語りつづけたイエス・キリストは磔になりました。マハトマ・ガンジーも、マルティン・ルーサー・キングも、ジョン・レノンも、みんな暗殺されました。彼らの身に起こったことにくらべれば、五十男が被る誤解や偏見、謗りや蔑みなど、蚊に刺されるようなものだと開き直って、愛について語りつづけるしかない。
 人々は愛について語る者を憎む。これは二千年前も現代も変わらぬ事実です。この事実こそ、愛について重大な何かを告げているのではないでしょうか。いったいなぜ、彼らは憎まれるのか。おそらく愛について語ることが、人間の真実に触れるからです。いつの世にあっても真実とは危険なものです。あらゆる支配と権力は、真実を隠蔽するところに成立します。誰もが真実を真実として生きることができるなら、支配も権力も必要ないでしょう。人々が真実を生きることを妨げるために、力(暴力)が行使されるのです。この力は誰よりもまず、真実を語ろうとする者に向けられます。だから真実を語るときには、痴れ者のふりをしなければならない。
  
   ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ(吉本隆明「廃人の歌」)
 

 ぼくもひところは、意識的に「愛」という言葉を使わないようにしていました。『世界の中心で、愛をさけぶ』というタイトルの小説がベスト・セラーになって、その小説についてたずねられることが多かったり、ぼく自身が「愛」という言葉とともに語られることが多かったりしたせいかもしれません。当初は身に覚えのない感じが強く、なんとなく居心地が悪かったものです。でも最近は半分開き直って、「愛」について、きちんと考えてみようと思うようになりました。
 こうした心変わりの原因は何かと言うと、一言で言えば、世界があまりにも暗澹とした状態になってきているということです。国の内外を問わず、悲観的にならざるをえない、絶望的にならざるをえない状況ばかりではないか、というのがぼくの実感です。たとえば海外のニュースを見ていると、世界中のどこかで常に武力紛争や内戦が起こっている。それが普通の状態になっている。誰がなんのために戦っているのか、ぼくたちからするとよくわからないことも多い。ただ相互に殺し合っているとしか思えないことも多いわけです。
 かつて戦争は時間的にも空間的にも限定された、いわば例外的な状態でした。どこかの国がどこかの国に宣戦布告をして戦争ははじまっていた。政治的に紛糾して、妥協点が見つけられなくなって、最後の段階として戦争が起こっていたわけです。しかしいまは、いつどこで戦争がはじまったのか、よくわからないうちに暴力の応酬になっていることが多い。だから明確な終戦も、和平や講和もない。国同士の戦争なのか、あるいは内戦なのか民族紛争なのか宗教対立なのか、そのあたりのことも判然としないことが多い。アメリカやヨーロッパの軍隊、国連軍のようなところが、平和維持や人権擁護という名目で軍事介入を行うことも、いまや国際政治の常態となっています。戦争は政治の最終段階ではなく、政治の主要な要素や手段になった観があります。つまり最初から軍事介入を前提としたところで、世界の秩序というかヒエラルキーみたいなものが形作られているわけです。こういうやり方にたいして、テロが起こってきているのだと思います。
 今回のアルジェリアの事件などを見ても、日本人はすでに潜在的にテロの標的になっていることがわかります。兵士か民間人かは関係ない。戦争と平和、軍事活動と経済活動の区別そのものが、もはやなくなっていると考えた方がいい。だからますます、ぼくたちは国家とか軍隊に依存せざるをえなくなるのだと思います。これらのものに守られなければ、経済活動も人道支援も行えない状況が生まれているわけです。フーコーが「生権力」と呼んだものが、人々の生と死を直接的に支配するようになっています。
 だから軍隊のあり方も、当然変わってきます。日本の政権などは、いまだに「防衛」という言葉を使っていますが、実質的には「セキュリティ」です。邦人の生命を守るために軍事力を活用する。それは軍事活動が警察活動に近づいていくことを意味しています。また軍事活動の内容も、攻撃にたいする防衛的なものから、予防的・先制攻撃的なものにシフトしていかざるをえないでしょう。セキュリティの名のもとに、こうした軍事活動が正当化されることで、さらなるテロ行為が生まれることは間違いありません。
 アメリカなどはテロとの戦いを宣言し、予防戦争や先制攻撃も辞さない姿勢を見せています。日本の政権もこれを支持するようなことを言っていますが、それは果てしない暴力の連鎖に巻き込まれる危険性を孕んでいます。これにたいする国民の合意は、まったくなされていません。ただ政治家だけが安易に、自衛隊法の改正や、アメリカとの軍事同盟の強化を口にしている状態です。テロとの戦いは、不明確な実体のない相手を敵とします。ウイルスや放射能を相手にすることと同じなのです。一度はじめてしまえば、何十年にも、何世代にもわたって恒常的な戦争状態がつづくことになるでしょう。その過程で、どれほどの暴力や憎悪が生み出されるのか想像もつきません。
 このように現在の世界には、暴力や憎悪といった否定性、否定的な力ばかりが満ち溢れています。日本の政治状況を見ても、否定する力を恃みとする人、否定的なトーンで語ることに長けた人たちが幅を利かせています。それにたいして文学にできることは何かと考えると、肯定的なメッセージを発しつづけることではないかと思うのです。非力であるからこそ、強い肯定のメッセージを発することが大切ではないか。そういう悲観的で絶望的な状況に抗する気持ちを込めて、「愛」という使いにくい言葉を、あえて使ってみたいと思うのです。
 愛とは何か。それは肯定性であり、肯定する力です。つまり暴力や憎悪の対極にあるものです。暴力や憎悪が地球を覆い、ぼくたちの誰もが否定的な力に引きずられ、気持ちが嫌悪や拒絶といった否定的な色に染まりがちなときこそ、「愛」という肯定する力について考え、人々の顰蹙を買うくらい、これについて喋り倒したいと思うのです。


 文学、とくに近代文学(小説)が愛を扱うのは、主にロマンチックな文脈においてです。人類愛や隣人愛といったものを、正面から描くというのは、あまり得意とするところではありません。やはり男女の恋愛とか、家族間の愛情とか、そういうロマンチックなところ、プライベートな局面で愛をとらえていくことになります。ですから当然、愛だけではなくて、憎しみのようなネガティブな感情も入ってきます。描かれる状況も、夢いっぱい幸せいっぱいというだけでは小説になりません。やはり痴情のもつれと言いますか、三角関係や嫉妬や誤解なども果敢に描き込んでいくことになります。その過程で、主人公たちは苦悩し、憔悴し、ときには自殺したりもする。彼らの生き方に共感する、共鳴する、というのが小説を読む一つの醍醐味ではないかと思います。
 具体的に例をあげた方がいいと思うので、皆さんもよくご存知の作品で、ドストエフスキーの『罪と罰』を取り上げてみます。簡単に内容をお話ししますと、主人公はラスコーリニコフというインテリの青年です。ペテルスブルグの大学に通っていますが、父親が亡くなって、地方で暮す母親と妹からの仕送りによって貧しい暮しをしている。しかし苦学して大学を出ても、下級官吏くらいにしかなれないことから、しだいに人生に絶望して、学業をつづける気がなくなってしまう。そして屋根裏部屋の自室で空想にふける日々を送っています。
 こうした不遇感は、現在の日本の社会でもかなり広く共有されているのではないでしょうか。いわれない落伍感というか、被害者意識というか、生きていることの苛立ち、不快感のようなもの……誰もが多かれ少なかれラスコーリニコフに近い気分で生きているとも言えます。空想のなかでラスコーリニコフは、欲深いだけで社会の役に立たない金貸しの老婆を殺して金を奪い、その金で自分のような有為の青年が学業をまっとうし、社会に出て人々に貢献することは、人類的な視点で見れば正しいことだと考えます。最初は自身の不遇感を紛らわせるようにして、ただ空想していただけでしたが、そのうちにもてあそんでいた観念が肥大して彼をとらえ、ついには実際の犯行に走らせてしまいます。しかも殺人を犯したあとでも、彼は自分のやったことに現実感がなく、したがって後悔も反省もしないのです。
 ここでドストエフスキーが描いているのは、自分の観念のなかに閉じ込められてしまった人間、そこから出ることができずに他者や外界との接触を失い、病的なまでに孤絶してしまった人間です。それだけでなく、彼は自分自身とも関係がもてずにいます。自己嫌悪が嵩じて自分にたいして不活性になっているというか麻痺している、そうした人間として描かれています。深い憂鬱に沈んだ主人公が、厚い自閉の壁を破って外界との交感を回復させる契機として、作者はソーニャという一人の娼婦を登場させます。彼女にラスコーリニコフは自分が犯人であることを打ち明けます。しかしソーニャは逃げ出すことなく、かといって責め立てもせず、ただ黙って自首を勧め、彼が懲役でシベリア送りになるとその町に移り住み、毎日のように面会に行くのです。
 そして一年ほど過ぎたとき、突然、ラスコーリニコフに変容が訪れます。一種の蘇生というか、救済が訪れます。世界にたいしても自分にたいしても脱臼状態にあり麻痺状態にあった人間が、自分と和解し、世界との交流を取り戻すのです。その場面を読んでみます。

  どうしてそうなったのか、彼は自分でもわからなかったが、不意に何ものかにつかまれて、彼女のもとへ突きとばされたような 気がした。彼は泣きながら、彼女の膝を抱きしめていた。最初の瞬間、彼女はびっくりしてしまって、顔が真っ蒼になった。彼女 はぱっと立ち上がって、ぶるぶるふるえながら、彼を見つめた。だがすぐに、一瞬にして、彼女はすべてをさとった。彼女の両眼 にははかり知れぬ幸福が輝きはじめた。彼が愛していることを、無限に彼女を愛していることを、そして、ついに、そのときが来 たことを、彼女はさとった、もう疑う余地はなかった……(『罪と罰』工藤精一郎訳)

 孤絶した人間が、長い苦悶の末に一人の他者によって蘇生し、再び生きはじめる。シベリアの流刑地において、極寒の地の粗末な小屋のなかで、彼は自己の内面に新しいものの誕生を体験する。そうした体験の契機となったのは、ソーニャという一人の他者の存在です。彼女からラスコーリニコフへ向かっての働きかけは、明確なかたちではほとんどなされません。ただ黙ってそばにつきそっているだけです。ただ彼女には相手が、自分と同じように不幸な人間、苦しんでいる人間であることがわかるのです。この苦悩の共有から、ラスコーリニコフの自己救済への道がひらかれます。
 人間的欲望とは他者の欲望を欲望することである、とヘーゲルは言っています。他者の欲望を欲望するとは、他者による承認を望むということでしょう。どうも人間というのは、自分以外の者から承認してもらわないと、つつがなく生きることができないようです。『罪と罰』という作品で、ソーニャという信仰心の深い娼婦を通してドストエフスキーが描いているのは、無条件の承認ということだと思います。あなたがどんなに罪深い人間だとしても、わたしはあなたがそこにいることを承認する。ソーニャの存在が、ラスコーリニコフにそのような承認を与えるのです。他者から承認されることによって、彼は蘇生し、再び生きはじめる。これがぼくの考える愛です。愛という肯定する力です。


 ドストエフスキーが描いたソーニャの原型は、おそらく『聖書』のイエスだと思います。『聖書』のなかでイエスは、様々な病人を癒します。そのときイエスの発する言葉は、「あなたの罪は赦される」というものです。つまり病気で苦しむ人に、無条件の承認を与えているわけです。あなたがどのような者であろうと、わたしはあなたの存在を承認する。ソーニャがラスコーリニコフに与えたのと同じ承認を、イエスは病気で苦しむ者に与える。それによって病気が治ってしまう。
 『聖書』の記述では、イエスが起こす数々の奇蹟の一つとして描かれていますが、この手の奇蹟は、イエスの振舞いほど普遍的ではないにせよ、ぼくたちの誰もが人生で一度や二度は体験しているのではないでしょうか。たとえば恋をすると女性は美しくなると言われます。これは実際に美しくなっているのだと思います。身体の内側から健康になったり、免疫力が高まったりしているのではないでしょうか。好きな人ができたら腰痛が治った、肩こりが治った、アトピー性皮膚炎が治った……そういう小さな奇蹟は、ぼくたちのまわりでしばしば起こっていると思います。
 恋をするということは、無条件に承認できる相手を見つけたということです。あるいは自分が誰かから無条件に承認されているということです。それによって人は健康になったり、病気が治ったりする。蘇生したり、新しいものが生まれたりする。それは奇蹟でもなんでもありません。なぜなら病気も含めて、その人は無条件に承認されているからです。腰痛であるあなたが、肩こりのあなたが、アトピー性皮膚炎のあなたが、無条件に承認される。そのとき病気は否定的なものでありつづける意味を失います。それが治るということ、癒されるということだと思います。このようにお互いを承認する力、愛という肯定する力を、人間は誰もが例外なくもっています。
 いったいぼくたちはいつ、どのようにして、こうした力を身につけたのでしょうか。おそらく誕生によってだと思います。だから身につけたというよりは、授けられたと言った方がいいかもしれません。もちろん親によって誕生を祝福されるということもあります。ぼくなども子どもが生まれたときには、よく生まれてくれたねえと思いました。生まれてくれてありがとうというか、その喜びは体験したことのないものだったように思います。神秘的な喜びといいますか、何か神秘的なものと出会ったような気がしました。それは自分たちの子どもという意味を超えて、存在自体を無条件に、絶対的に承認する相手と出会った、そういう存在を授かったことの神秘さだったように思います。
 家族というのは、その者が存在することに、お互いが無条件の承認を与え合う関係だと思います。人間的行動ではなく、ただ生物的な存在に絶対的な価値を見出すのです。だから家族を看取るときも、ただ呼吸器や点滴につながれて生命を保っているだけの肉体ということで、簡単に見切りをつけることができないわけです。その息をしているだけの、まったく役立たずの肉体に絶対的な価値を見出すのが家族だからです。遺骨の意味も、そういうところにあるのでしょう。人間というのは、亡くなって焼かれて灰になっても、けっして物質に還元されてしまわない存在なのです。人間をそのような存在にしているのは、ぼくたち誰もがもっている愛の力、愛という肯定する力だと思います。
 では親から祝福されずに生まれた子どもはどうなんだ、家族の愛を知らずに育った子どもはどうなるんだ、その子は不幸じゃないか、愛という肯定する力を授からなかったことになるのか、という反論も予想されますが、そんなふうに考えない方がいいと思います。この世に誕生すること自体が、その存在を全面的に肯定され、祝福されているということなんだ、と考えた方がいいと思います。誕生しなかった生命、生まれることができなかった命も、たくさんあるわけですからね。親が望むとか望まないとかいうのは、生命の大きな流れならすると些細なことです。誕生そのものが、絶対的に肯定されることであり、無条件に祝福された事態なのだと考えた方がいい。誕生することは、すでに幸先のいい奇蹟なんだ。ぼくはそんなふうに考えたいと思います。
 残念ながら、ぼくたちはイエスのように、出会う人すべてに無条件の承認を与えることはできません。仏教の言葉では「慈悲」ということになるのでしょうが、これもなかなか生身の人間には難しいことです。たとえば被害者が加害者にたいして、「あなたの罪は赦される」と言えるかというと、ほとんど不可能に近いくらい困難でしょう。どうしても報復や償いといったことを考えてしまう。だから戦争やテロはなくならないわけです。イエスや釈迦のように振舞えるのは、やはり一握りの偉大な人たちと考えた方がいいのかもしれません。普通の人間は、とりあえずラスコーリニコフとソーニャのように、ありきたりの者同士として愛し合うところからはじめるよりほかない。殺伐とした世界のなかに小さなシェルターをつくって、連れ合いとか家族とか、身近な者たちと、ささやかな承認の儀式を執り交わすよりほかない。
 しかしながら、殺伐とした世界を生きている誰もが、愛という肯定する力をもった人たちであるわけです。たとえ憎しみ合い、殺し合っていても、ときに被害者や加害者であったとしても、そうした一人一人が誕生において祝福され、肯定された人たちなのです。人間は愛という肯定する力とともに、憎悪や暴力という否定する力ももっている。どちらかが真実というわけではない。どちらも真実なのだと思います。ラスコーリニコフにしても、一方で罪もない老婆とその妹を斧で叩き殺すほど冷酷な人間でありながら、ソーニャの無言の愛に感応する心をもっている。人間とは、そうした両面性をもった、振幅の大きな存在なのだと思います。どちらか一方を誇張することは間違っています。とくに小説では、ドストエフスキーのように両面を描き出すことが理想なのです。
 ただ現在の世界では、技術によって否定的な力ばかりが増幅されて行使されます。そのことが暗澹たる状況をつくり出していると言えます。これにたいして愛を有効に増幅する手段はありません。技術が否定する力に加担するように、愛という肯定する力に加担してくれるものはありません。ぼくは言葉によって、なんとか愛を応援しようと思っていますが、いかんせん非力であり、無力感にとらわれることもしばしばです。しかし強いものの味方はしたくないので、これからも無謀なまでに愛について考え、年甲斐もなく愛について語りつづけようと思っています。
(2013.2.10 アクロス福岡円形ホール)