ブログ

あの本、この本⑫

『死を見つめ、生をひらく』について

 現在、私たちはどのような自己を生きているのだろう。そうした自分に耐えることができるだろうか。たとえば医学や生物学が定義する死、死はすべての終わりで、そこから先は無であるというような考え方に、私たちは耐えられるだろうか。
 死は虚無であり、それ自体は無意味である、と一つの社会全体がみなしているとすれば、非常に特異なことだと言えます。そんなふうに死を位置づけた社会は、過去にも現在にも、ほとんどないはずです。なぜなら死を虚無と考えることに、人間は耐えられないからです。だから死者は埋葬されたのです。様々な葬制が考え出されてきたのです。人間の歴史は死者たちとともにありました。死者や死後を考えるのが人間であると言っていいくらいです。この社会が死を虚無とみなすなら、それ以外の答えを死にたいしてもちえないなら、ぼくたちは人間以外のものになりつつあると考えるべきでしょう。
 人間の生は個体のものであるとともに、個体を超えたものでもあります。現在とともに、歴史や伝統のなかにある。そのようにして人は生き、死に赴いてきました。ところが日本の社会においては、長い歴史や伝統のなかで培われてきたものが、四十年や五十年というきわめて短い期間に、根こそぎ姿を消してしまいました。いまのぼくたちは、歴史や伝統から見捨てられた状況にあると言えます。その結果、「現在」と「自己」が全面化することになっている。いま現にある自分から離れられなくなっているのです。
 こうした社会では、個人の利害や感情を括弧に入れることができないために、倫理的なものが成り立たなくなります。たとえば善悪に基づいて行動することよりも、経済合理性のようなものが幅を利かせてしまう。さらに死は、全面化した「現在」と「自己」の終わりとして、虚無でしかありえなくなります。ゆえに「延命」だけが、唯一の社会的価値になる。空虚と孤独に取り囲まれた状況の異常さを、ぼくたちは自覚すべきだと思います。なぜそうなっているのか。そうした生き方を強いるものは何か。
 この本で投げかけたいのは、以上のような問いです。死の考察をとおして、そのことを積極的に問題化してみたいと思います。
(『死を見つめ、生をひらく』NHK新書)