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博多ひとくち餃子 / 福岡ウォーカー寄稿 これは美味なり

子どもたちが小さかったころ、ときどき家族で餃子を作ることがあった。家で退屈している日曜日の夕方などが多かった。「さあ、今日はみんなでギョーザを作るぞ」と宣言するだけで、これといって特色のなかった休日が、にわかに祝祭的な雰囲気を帯びてくる。
食卓の上にビニールを広げ、手や顔を真っ白にしながら強力粉をこねる。うちは男二人の兄弟。学齢前の彼らにとっては、ほとんど粘土遊びの延長みたいなものである。「皮」というよりは「肉」、「包む」というよりは「丸める」といった感じ。二人はげらげら笑いながら、お互いの「作品」の巨大さ、不恰好さを競っている。
「自分で作ったギョーザは、自分で責任をもって食べること!」
焼くのは無理なので、煮立った湯に放り込んで茹でる。小ぶりのクリームパンほどもある餃子を前に、彼らは嬉々としている。餃子というよりは、肉まんである。ほとんど小麦粉の団子みたいなものだけれど、不思議と旨いんだな、これが。
手作り餃子においては、やや厚めの皮が生命である。具はいい加減。もちろん凝ってもいいけれど、適当に作っても充分おいしい。たとえば鶏のミンチに韮を入れただけの、きわめてシンプルなやつ。これなどもさっぱりして、なかなかいける。

さて、今回登場の博多ひとくち餃子は、かつて我が家で食されていたものとは、いわば対極にある洗練された一品である。どうして「博多」なのか、なぜ「ひとくち」なのか、野暮なことを訊いてはいけない。詮索は無用。そういうものだと思って食べましょう。
餃子だから、由来は中華なのだろうが、中華料理店で食べることは少ない。また中華料理という意識も希薄である。焼き鳥、ラーメン、もつ鍋などの地元料理と組み合わされて、ほとんど屋台や居酒屋の定番メニューとなった観がある。そして実際、これらの料理との相性が、じつによろしい。メインというよりはオードブル、クリンナップというよりは二番バッター。そのあたりの絶妙なたたずまいが、「博多ひとくち餃子」と愛着をこめて呼ばれる所以なのかもしれない。
今日も暑い一日だった。まずは冷たいビール。つぎは芋焼酎のお湯割りか水割り。テーブルには餃子や焼き鳥が並ぶ。くう~、想像しただけで唾が出てくる。