猫々通信②
正直なところ、Webサイトを立ち上げることには、それほど積極的ではなかった。コンピュータ、インターネットのことは、いまでもほとんどわからない。ただ仕事に必要だから、渋々付き合っているという程度だ。サポートしてくれる人がいなければ、自分からサイトを開設しようとは思わなかっただろう。
福島の原発事故をきっかけに事情が変わった。この原発事故について、まずはっきりさせておくべきことは、東北大震災と原発事故とは、まったく別次元の問題であるということだ。二つは切り離して考えた方がいいと思う。震災も津波も、周期的に繰り返される自然現象であり、人間も地表にへばりついて生きる生物である以上、これらと付き合っていくしかない。だが原発事故は、日本の経済、産業、社会のあり方が引き起こしたものであり、ぼくたちの生き方そのものを問う出来事である。
とはいえ、それまで原発のことなど、まともに考えたことはなかった。学生時代に反原発運動にかかわったことはあるが、いつのまにか興味を失い離れていった。だから今度の事故が起こって、あらためて原発について考えはじめたというのが実状だ。最初のうちは、何がなんだかよくわからなかった。時間が経つにつれて、事態の深刻さが少しずつ理解できるようになってきた。いまでも完全に理解できているとは言えないが、勉強すればするほど、放射能の被害は深刻であり、原子力発電は、少なくとも現段階では、実用化してはならないものであることがわかってくる。
ところが、これだけ大きな事故が起こり、それは日本という国を滅ぼしかねない規模と深度のものであるにもかかわらず、この社会は、政治も経済も(もちろん電力会社も)、まったく変わる様子がない。いずれ原発は再稼働されそうな気配だし、企業と官僚がグルになって国民を搾取する構造もあいかわらずだ。自民党も民主党も、電力会社や電力労連から多額の献金を受けていながら、選挙で意思表示をというのは、ずいぶん国民を馬鹿にした話だ。
そんなわけで、今年の五月くらいから鬱々とした日がつづいている。本業の小説にも身が入らず、原子力関係の本ばかり読んでいた。政府、専門家、マスメディア……あらゆる人たちが敵に見えた。というか、彼らのことが理解できなかった。この期に及んで、どうして彼らは原発を容認しようとするのか。それも被曝の基準を緩めてまで。ちょっと調べてみればわかるが、年間1ミリ・シーベルトという国際基準にしても、けっして低い値ではない。ヨーロッパの科学者たちは0.1ミリ・シーベルトを主張しているし、内部被曝にかんしては、ゼロ以外は安全でないというのが常識だ。それなのに、事故が起こってから基準を緩める日本は、いったいどういう国なんだ。年間20ミリ・シーベルなどという値は犯罪的だ。国民の生命や健康をなんと考えているのか。
他にも言いたいことはたくさんあり、その一部なりとも発信しようと思うのだが、たくさんの人の目に触れる媒体となると、新聞くらいしか思いつかない。付き合いのある記者に無理を言って紙面を確保してもらっても、掲載までに早くて一週間はかかる。しかも字数が限られており、充分に議論を展開できない。検閲もある。つぎにまた書かせてくれと言っても、先日掲載したばかりなので、と渋い顔をされる。読売新聞にいたっては、原稿を送っても返事さえよこさない。内容が社風に合わなかったか? 所詮は、正力松太郎の会社だからな。ツウィッターで呟いてみたけれど、ぼくには向いてなかったみたい。なんとなく愚痴っぽくなっちゃう。欲求不満は募るばかりだった。
だが、これからはブログがある。言いたいことは、言いたいときに、ここに書く。いま書いていることも、まあ愚痴みたいなものかもしれないけれど、できるだけ前向きに、自分の内に閉じこもらすに、みなさんに言葉を投げかけていきたいと思っています。