猫々通信④
ぼくたちはなんのために生きているのだろうか。自分の死に「出発」というニュアンスを与えるためである。なぜ善く生きようとするのだろうか。正しく出発するためである。
死はわからない。少なくとも、万人が受け入れることのできる共通の理解として、もはや死はありえない。死にかんして、誰もが採用できる答えは存在しない。百人に百様の考えがあると言うしかない。それがぼくたちの生きている世界のありようだ。
死がわからないということは、生がわからないということである。死がどこにもない、死にたいする答えがどこにもないということは、生がどこにもない、生にたいする答えがどこにもないということである。何を信じて、何を目指して生きればいいかわからない。自分という人間がどうなっていけばいいのかについて、明確なヴィジョンをもつことができない。これはたいへん心細い、寄る辺のないことだけれど、同時に、自分の人生をより主体的に、より自律的に生きる契機にもなりうるはずだ。
こんなふうに考えてみればどうだろう。ぼくたちは生にたいする答えを出すことによって、死にたいする答えを出そうとしているのだと。自分の人生をとおして、死に少しずつ明確なかたちを与えようとしている。いかに生きるかによって、死にたいする文脈をつくり出そうとしている。そのようにして死は、ぼくたち一人一人が定義すべきものになっているのではないだろうか。
生きることは、すなわち自分自身の死を定義することである。ぼくたちは自らの生によって、自らの死を定義する。そして定義した死を死んでいく。それがどのようなものであるかは、誰にも言うことはできない。ただ生涯を通して生み出されていく固有の価値が、一人一人の死にふさわしい方向性を与えると言うことしかできない。「出発」としての死。ゆえに生きることは、そのままモラルの問題である。
ぼくたちは自分がお世話になった世界を、少しでも良いものにして立ち去りたいと思う。それが正しく出発するということだ。未来の他者に負担を残して、いったいどこへ向かって出発するつもりなのか。来たときよりも美しく。処理方法のない使用済み核燃料を残して、ぼくたちは正しく出発することはできないだろう。生活保護や交付金に依存して生きざるをえない社会をそのままにしては、やはり正しく出発することができない気がする。
もっと言葉を費やして、丁寧に言わなければならないのだけれど、いまはとりあえず。