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あの本、この本③

 新著『文明の災禍』のなかで、内山節さんはつぎのように書いている。「私は原発を必要なものだと考えるような生き方は、したくないのである。」
 よくぞ言ってくれました! この半年のあいだ、鬱々といろんなことを考えながら、なかなか言葉に出来なかったことが、内山さんの一言に言い尽くされている。

 原発を必要とする生き方はしたくない。

 
ここが出発点である。ここからすべてのことを考えなければならない。電力が足りなくなるとか、日本経済が沈滞するとか、そんなことは二の次、三次の問題である。ぼくたちはまさに、「原発を必要とする生き方はしたくない」のである。そこからはじめよう。それを前提としよう。電力や経済のことは、なんとでもなる。なんとかなるはずじゃないか。
 考えてみよう。日本は世界でも稀に見るほど恵まれた国である。水道の水をそのまま飲むことができる国は、日本を含めて世界中に六、七ヵ国と言われている。殺人を含む犯罪の発生率が、先進国のなかでも際立って低いことは周知の事実だ。加えて、寒暖差の小さな穏やかな気候。地震が多いのは玉に瑕だが、それを勘定に入れても、人が暮らしていく上で、これほど恵まれた条件が揃っている国はない。さらに世界に冠たる技術力をもち、勤勉さにおいてはどこにも負けない。原発をやめたくらいで、立ち行かなくなる国ではないのだ。
 自信をもとう。「原発を必要とする生き方はしたくない」を原点にしよう。いつだって、そこに立ち帰って考えよう。そこからしか、善い生き方、正しい生き方は創生されないのだから。

 内山さんの本の紹介をしなくちゃ。ぼくの卒論は「マルクスの疎外論」である。そのころ内山さんの本を読んだおぼえがある。新進の学者として、ちょっと変わった労働哲学を展開されていたように記憶している。その後、長らくご無沙汰だった。
 久しぶりに内山さんの本を手に取ったのは、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)で、これはとても面白い本だった。目の付けどころが新鮮で、なるほどと思わされた。ぼくが考えていることと重なるところもあり、『「里」という思想』(新潮選書)などの、過去の著作も遡って読んだ。
 内山さんの思考のキーワードは「自然」と「死者」である。ぼくもこの二つを、人間に自己反省を促す契機としてとらえている。ぼくたちが抱えている大きな課題の一つは、いかにして生きるための「モラル」を構築するかということだ。資本主義からはモラルは生まれない。資本主義を駆動させている原理は「自由」と「平等」で、これらはいずれもモラルを必要としない。ただ「ルール」さえあれば事足りる。
 だが、人間が善く生きるためにはモラルが必要だ。このモラルを、ぼくは「自然」や「死者」とのつながりから構築できないかと考えている。たぶん内山さんも、同じようなことを考えておられるのだろう。それが「原発を必要とする生き方はしたくない」という表明にもつながっている。原発の問題は、経済や産業の問題ではなく、何よりもモラルの問題である。これについては、稿を改めて書くつもりだ。【内山節『文明の災厄』新潮新書】