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あの本、この本⑥

 最初のメッセージが録音されたのは火曜日の午前8時52分。メッセージは全部で五つ残されている。そして最後の電話がかかってくる。午前10時26分。オスカーは出ることができない。その瞬間、彼のなかで父親の死は宙づりにされてしまう。
 9・11のテロで父親を失ったオスカーは、父の最期の様子を知らなければならないと、強迫神経症的に思い詰めている。ある日、彼は父の遺品のなかから一つの鍵を見つける。鍵の入っていた封筒には「ブラック」と書かれている。こうしてオスカーの「ブラック」探しがはじまる。
 8ヵ月のあいだ、オスカーは一つの鍵穴を探してニューヨークを歩きまわる。何のために? 父の死に追いつくために。喪に服す者として、父の死を正当に悲しむことができるようになるために。オスカーのなかの時間は、父親の死とともに止まったままだ。凍りついた時間を解凍してくれるのは、「悲しみ」かもしれない。しかし宙吊りにされた父の死を、オスカーは悲しむことができない。だから父親の最期にかんする証言を求めて、ニューヨーク中をさまよい歩かなければならない。「パパがどんなふうにして死んだのか」を知り、父の死に追いつかなければならない。再び世界を取り戻すために。彼が必要としているのは悲しみだ。「悲しみ」というシンプルな感情だ。だがシンプルな感情を抱くには、ぼくたちの生きている世界は複雑すぎる。
 オスカーの祖父は、ドレスデンの爆撃で恋人を亡くした。彼女のお腹のなかには子どもがいた。ありえないほど深い喪失感を抱えた彼は、アメリカへ渡り、そこで死んだ恋人の妹(オスカーの祖母)と偶然に出会う。奇妙な二人の結婚生活がはじまり、妻は妊娠する。そのことを告げられた日に、彼は妻の前から消える。オスカーの祖父のなかでも、やはり時間は止まっている。いや、彼自身が止めてしまったと言うべきだろう。言葉を失うという方法で。彼にとって沈黙とは祈りのようなものだ。
 そして2001年9月11日がやって来る。父の死と息子の死が重なる。父を亡くしたオスカーと、息子を亡くした祖父の運命が交錯する。父からの最後の電話に出ることのできなかったオスカーと、一度も会うことのなかった息子を亡くした祖父が出会う。
 オスカーの祖父は書く。「生は死よりも恐ろしい」。たしかに、そうかもしれない。人を愛することはリスクに満ちている。だから祖父は何も愛さない生き方を選んだ。愛するものを失うのが怖いから。オスカーはどうだろう? 父の死を悲しむことで、つぎへ進むことができるだろうか。「できる」と思いたい。そのために、ぼくたちは悲しむ能力をもっているのかもしれない。きわめて困難ではあるけれど、悲しむことのできる者は、生きることもできるのだと信じたい。あたかも恩寵のように、「悲しみ」を求めなければならないぼくたちは、なんと不幸なのだろう。 
 ビルに突っ込む飛行機。ビルから落ちていく人たち。崩れ落ちるビル。あんなことは起こってはならなかった。誰もあんなことには耐えられない。しかし起こってしまったことは起こってしまったのだし、起こってしまった以上は引き受けなければならない。まともに引き受ければ人間は壊れてしまう。そんな過酷なことが否応なしに降りかかってくる。それがぼくたちの生きている世界だ。
 何も入っていない空っぽの棺桶を墓場へ運び、シャベルで土をかける。そんなことに人間は耐えられない。また耐える必要もない。動物たちの生と死のなかでは、そんなことは想定されていない。人間も基本的な部分では動物だから、やはり耐えられないはずなのだ。耐えられないことを耐えるように強いるのが、この世界のありようだ。
 この世界を変えることはできるだろうか? できないのではないか、とぼくたちは漠然と感じている。ものすごく大きな無力感のかなで、いつかぼくたちもオスカーのように、鍵穴を探し求めて歩く日が来ることに怯えている。そこからはじめるしかないのだと思う。
【ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』近藤隆文訳・NHK出版】(この日本語版はすばらしい。原書に添付された数多くの写真、色マジックの使用、フォントの変更、変則的な文字組みなど、ややこしい視覚的効果を忠実に再現。翻訳も上手い。とくにオスカーが多用する「What The?」を「なんぞ?」と訳したのは、お見事。)