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ネコふんじゃった2007(シーズン2)

13)もちろん、明日も愛してる

 ぼくらぐらいの歳(年が明けると四十八です)になると、気に入ったアルバムをいろんなディスクで何枚も持っている、ということがだんだん増えてくる。キャロル・キングのこのアルバムも、最初はLPレコードでずっと聴いていた。それから初代のCD、ボーナス曲追加のリマスター盤ときて、いまはもっぱら音のいいSACDで聴いている。もう三十年以上聴いているのに、ちっとも飽きない。聴くたびに、キャロル・キングの歌声もバックの演奏も新鮮である。
 このアルバムがリリースされた一九七一年当時は、ジェームス・テイラーやジョニ・ミッチェルなどとともに、シンガー・ソングライターのアルバムというとらえられ方だったように思う。いま聴くと、ソウル色の強い曲も多い。もともとゲリー・ゴフィン(前夫で作詞担当)とともに、ソングライター・チームとして活躍していた人である。二人が作品を提供してきたミュージシャンには、シュレルス、ドリフターズ、アレサ・フランクリンなどソウル系の人たちも多かったので、当然といえば当然だ。
 たくさんのヒット曲を書いてきた人だけに、このアルバムも名曲ぞろいである。以前は「去り行く恋人」「イッツ・トゥ・レイト」「君の友だち」などが好きだった。いまは「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロー」をとくに愛聴している。前にも名前の出たジェームス・テイラーとジョニ・ミッチェルがハーモニーを付けている。いまでは考えられない、とても贅沢な一曲である。
  (キャロル・キング『つづれおり』)

14)ボブ・ジェームスはココアの味

 両親が共働きだったので、小学校から帰ってくると、おやつは自分で作ることが多かった。電子レンジのない時代で、ホットケーキなんかもフライパンでせっせと焼いていた。それからココアね。純正ココアとグラニュー糖をよく混ぜ、熱湯を少し加えてペースト状に練り、そこへ温めた牛乳を少しずつ加えていく。美味しいココアを作るのって、けっこう面倒くさい。でも冬の寒い午後、炬燵に入ってホットケーキとココアのおやつなんてのは、ちょっといいもんでした。
 現在もフォー・プレイを率いて活躍しているBJ氏。このアルバムはピアニスト、コンポーザー、アレンジャーとして、一つのピークにあった時期の作品だと思う。一曲目の「アンジェラ」、フェンダー・ローズの音色が美しい。二曲目のタイトル曲では、一分二十七秒目にきらりと光る短いピアノ・ソロが……と全五曲、聴きどころ満載。ときに能天気になることもあるBJ氏だが、このアルバムはマイナーの曲調が多く、全体がしっとり落ち着いた印象で聴き飽きない。参加ミュージシャンたちのなかにはエリック・ゲイルやヒューバート・ローズなど、七十年代のフュージョン・ファンには懐かしい名前も。
 それにしてもソロ・六枚目でタッチダウン(六点)というタイトルは、センスがいいんだか悪いんだか。ちなみに七枚目はラッキー・セブンでてんとう虫(七星)のジャケット。このあたり、どこまでも気のいいおじさんBJ氏である。温かいココアと一緒にどうぞ。
  (ボブ・ジェームス『タッチダウン』)

15)プロレスラーじゃありません

 深夜、人気のない裏通りでけっして出会いたくないミュージシャン、それがアーロン・ネヴィルだ。不幸にして出会ってしまったら、目を合わさないようにして、できるだけ素早く通り過ぎてしまいたい相手、それがアーロン・ネヴィルだ。いくらにっこり笑いかけてきても、ぼくはだまされない。あんた、絶対に人殺してる!
 野蛮な風体にスイートな歌声。ボンレスハムみたいなぶっとい腕にはジーザスの刺青。それが本日ご紹介する、アーロン兄貴です。別に、ぼくの兄ではないのですが、つい「兄貴」と呼んじゃいたくなります。まずは一曲目、ランディ・ニューマンの名曲「ルイジアナ1927」をお聞きください。兄貴の甘い歌声に、身も心もとろけてしまいそうです。とどめは最後の「アヴェ・マリア」。昔、CMに使われていたこともあるので、お聞きおぼえのある方もいらっしゃるかと思います。
 天使の歌声と天才的な節回し。とにかくアーロン兄貴の場合、いい曲を、いいアレンジと演奏をバックにうたわせれば、それでいいのです。なんて簡単、とぼくなどは思うのですが、兄貴のアルバムが全部すばらしいかというと、さにあらず。選曲がいまいちだったり、アレンジがごてごてし過ぎていたり。その点、これは限りなく正解に近い名盤です。
 プロデュースはリンダ・ロンシュタット。意外です。ちょっと見直しちゃいました。兄貴の甘い声を、ふくよかな暖かみのある音でとった、ジョージ・マッセンバーグの録音も見事。
  (アーロン・ネヴィル『ウォーム・ユア・ハート』)

16)カットアウト盤を探し歩いた日々

 いまの人たちには馴染みがないかもしれないが、以前はカットアウト盤といって、廃盤になったレコードをわざと傷つけ、ディスカウント商品として流通させる仕組みがあった。その名のとおり、ジャケットの片隅が少し切り取られている。なかには切れ込みを入れただけで、ほとんど傷の目立たないものもあった。通常の輸入盤より、五百円から千円くらい安かったように思う。
 大学生のころはお金がなかったので、古本屋をよく利用していた。もちろんブックオフなどなかった時代である。気難しそうな親爺が、店の奥にでんと腰を据えていることが多く、乱雑に本を扱うと叱られたりした。レコードの方は、輸入盤を扱っている店でカットアウト盤を探すのが楽しかった。ビニールにくるまれたアメリカ盤は、開封すると、いがらっぽい独特の匂いがした。とにかくお金と暇さえあれば、古本屋と輸入レコード屋で時間をつぶしていたように思う。そうして手に入れた本やレコードは、同じ買い物でも、自分の眼と足で見つけたという満足感があった。
 ホール&オーツの初期の作品も、何枚かはカットアウト盤で手に入れた。まだブレイクする前で、彼らのレコードもすぐ廃盤になっていたのだろうな。なかでもこのアルバムは、ジャケットも含めていちばん気に入った一枚。フォーク・ソングとソウル・ミュージックが、うまい具合にブレンドされて、いい味が出ている。二人の歌声も、明るくはつらつとしている。いまだにみずみずしさを失わない、傑作である。
  (ダリル・ホール&ジョン・オーツ『アバンダンド・ランチョネット』)

17)世界でいちばん美しいCD

 アルゾ。本名アルフレッド・アフランティ。ニューヨーク生まれの彼は、十代のころからグリニッジ・ヴィレッジのカフェなどで音楽的なキャリアを積んでいく。様々な困難を乗り越えて、ようやくデビュー・アルバムの発売にこぎつけたのが一九七二年のこと。しかし契約していたレコード会社が倒産し、すでに完成していたセカンド・アルバムもお蔵入りとなる。その後も不運が重なった彼は、失意のうちに音楽の世界から身を引いてしまう。
 アルゾの音楽を愛しつづけ、アルバムをCD化するために腐心していたのは、心ある日本のリスナーたちだった。そのことを知った彼は、コンピュータに自分の名前を打ち込んでみる。すると様々なサイトがヒットした。どうやら日本でアルゾは「有名」らしい。自分の音楽について誰かが知っていて、消息を気にかけてくれているなんて、夢にも思わなかったのに……。
 こうしてアルゾと日本のリスナーたちとのあいだの、刺激的で心温まる交流がはじまる。三十年のブランクを取り戻すかのように話は進み、このデビュー・アルバムにつづき、幻のセカンド・アルバムが世界ではじめてリリースされることになる。その矢先、彼は心臓発作で急死してしまう。享年五六歳。来日してライブを行う計画まであったという。
 あまりにも儚いアルゾのデビュー・アルバム。リイシューされるまでの経緯も含めて、世界でいちばん美しいCDだと思う。この素晴らしい音楽が、どうか多くの人たちの耳に届きますように。
  (アルゾ『アルゾ』)

18)ベスト盤についての一考察

 レコードからCDになって、ベスト盤がつまらなくなった、と感じているのはぼくだけだろうか。かつてLPの時代には、ベスト盤の名盤がたくさんあった。サイモン&ガーファンクルの『グレイテスト・ヒッツ』やジョン・レノンの『シェイヴド・フィッシュ』などは、内容はもちろん、アートワークまで含めてオリジナル・アルバムと言っていいものだったし、エルトン・ジョン、ジェイムス・テイラー、イーグルズのグレイテスト・ヒッツなども、まさに「グレイテスト」の名に恥じないものだった。日本編集のベスト盤としては、来日記念盤として出た『栄光のシカゴ』が忘れられない。
 そもそもベスト盤というのは、誰が出してもいいというものではなかった。それなりの実績が必要であり、各レーベルにとって看板となるアーティストに限られていた。さらにLPレコード一枚、収録時間にして四十五分から五十分という制約も、ベスト盤のクオリティを高めていた。ところがCDの時代になると、「グレイテスト」の名にもとるグレイテスト・ヒッツが量産されるようになる。先にあげたミュージシャンたちのベスト盤も、いまはCD二枚組で出ている。八十分×二でお腹はいっぱいだけれど、どうしても聴き流すという感じになってしまう。たくさん曲を入れればいいというものではないのである。四十五分一本勝負で一気に聴かせてほしい。
 EW&Fの最初のベスト盤こそ、ベスト盤の鑑である。名曲「セプテンバー」は、このアルバムでしか聴けなかった。選曲も曲順も、これ以外には考えられない。惜しむらくはジャケットが……。
  (アール・ウィンド&ファイアー『ベスト・オブ・EW&F』)

19)今年は三十一回忌

 「夏の日の恋」でおなじみのパーシー・フェイス。ジャンルでいうとムード・ミュージックやイージー・リスニングといったくくりになるかと思う。しかしヨーロッパ音楽からはじまり、ミュージカル、ラテン、映画音楽、さらに晩年にはキーボードやコーラスを大々的に導入し、サンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」などロック・ナンバーまで取り上げてしまうポジティブな姿勢は、ときにミスマッチの観は拭えないものの、「イージー」とは程遠い、天晴れなものであった。
 彼が癌のために六十七歳で亡くなったのは一九七六年のこと。したがって本当は去年が三十一回忌なのだが、なぜか今年になって「没後三十周年企画」ということで、代表作が十点ほど紙ジャケットで発売された。これはそのなかの一枚。パーシー・フェイスというと、きらびやかなブラス・アレンジの印象が強いが、ここでは金管も木管も使わずに、ストリングス(とピアノ、ハープ、ヴィブラフォン)だけで流麗な演奏を聞かせてくれる。
 とにかく弦楽器の音が美しい。一九五九年の録音とは思えない、水の滴るような艶やかな音である。その妖艶な音色は、ウィーン・フィルなど、戦前のヨーロッパのオーケストラを思わせる。またビブラートをきかせて歌い上げるところは、怪しいまでに耽美的で、マーラーやワーグナーと錯覚しそうになる。ベストは三曲目の「ローラ」だろうか。他にも「テンダリー」「ムーラン・ルージュの歌」「ひき潮」など、名曲名演ぞろいである。
  (パーシー・フェイス・オーケストラ『美しい花束』)

20)世界仕様、日本のロックの金字塔

 大学院に進学して間もないころ、ロック好きの先輩が、「これ聴かんと後悔するばい」と言って、一枚のレコードを貸してくれた。針を落としてから最後の曲が終わるまでの四十分間。打ちのめされた。とくに「マラッカ」と「つれなのふりや」と「裸にされた街」の三曲は、頭のなかに亡霊のように住みついてしまった。しばらくは熱に浮かされたように、このレコードばかり聴いていた。
 いま冷静になって聴き直してみると、これは奇蹟的な作品だと、あらためて思う。六十年代末から積み重ねられてきた日本のロックの様々な試みが、レゲエやニューウェイブやフュージョンといった時代のトレンドとともに、パンタという一人の表現者の身体に流れ込み、作品を稀に見る高みまで引き上げた。ポリスやトーキング・ヘッズといった、当時のもっともすぐれたバンドの作品と比べても、まったく遜色がない。しかも日本の伝統的な感性が、ロックというスタイルのなかで、とてもしなやかに息づいている。日本人が生み出したロックのアルバムとして、表現力と音楽性と世界性が、かくも高いレベルでバランスよく融合した作品は、後にも先にもこれだけだと思う。この一枚だけで、日本のロックは成仏できる。
 アルバムがリリースされた一九七九年は、サザン・オール・スターズの「いとしのエリー」の年である。山下達郎が「ライド・オン・タイム」でブレイクする前の年でもある。サザンや達郎に比べると、知名度はずっと低いと思うけれど、彼らのファンにもぜひ聴いてもらいたい。
  (PANTA&HAL『マラッカ』)

21)夏休みに離島で聴いたジョージ・ベンソン

 大学生になって夏休みに帰省すると、高校時代の友だちとよくキャンプに行った。郷里の街は海に面しており、船で行けるキャンプ場が何箇所かあった。その年はY君と二人で日振島というところへ行くことにした。高速艇で一時間半くらいかかる、かなり本格的な離島である。教育委員会で借りたテントを張り、焚き火をして飯盒でごはんを炊けば、気分はすっかりヘミングウェイなのさ。日が暮れればウィスキーを呑みながら、ギターを片手に西岡恭蔵の「プカプカ」をうたい、すっかり酔っ払ったぼくたちは「告白ごっこ」をすることにした。おれ、じつは人妻と付き合っているんだ。えっ、ほんと! ここだけの話だぜ。うん、それで?
 二日もすると、キャンプ生活にも翳りが出てくる。レトルト・カレーとインスタント・ラーメンの食事には飽きたし、虚実入り混じったというよりは、ほとんど虚で塗り固められた「告白ごっこ」も鼻についてきた。二人ともいらいらして、小さなことで刺々しい言葉の応酬になる。なんでおまえなんかとキャンプに来たのかな、お互いにと胸のなかで思っている。予定を繰り上げて早めに帰ることで話がまとまり、ぼくたちはテントを片付けて、気持ちの冷え切った夫婦のように、港で帰りの船が出るのを待った。
 Y君が持参したラジカセにテープをセットした。ハービー・メイソンのかっこいいドラムのイントロが聞こえてくる。ジョージ・ベンソンのギターと歌は、海を渡って吹いてくる風のように、どこまでも爽やかだった。街に帰ったら、冷たいビールが呑みたいなと思った。日焼けした背中が、ひりひりしはじめていた。
  (ジョージ・ベンソン『ブリージン』)

22)サンプラー盤を買っていたころ

 中学三年生のときのオイルショックで、それまで二千円だったLPレコードが二千五百円になった。おこずかいは月に二千円だったので、五百円の値上げは痛かった。欲しいレコードはたくさんあるのに……。
 そのころ幾つかのレコード会社がサンプラー盤というのを出していた。各社を代表するミュージシャンの作品を各一曲ずつ収録したもので、レコード会社に直接注文して送ってもらう。だいたい二枚組みで千円くらいだった。ジャケットはひどいし、なんとなく試供品みたいでうれしくなかったけれど、背に腹は替えられない。
 ライ・クーダーの音楽とは、そのようにして出会った。高校一年生の夏休みに注文したワーナーのサンプラー盤に、「ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート」が入っていたのである。鳥肌が立つほどカッコイイと思った。ボトルネック奏法というのも、この曲ではじめて知った。自分でもやってみたいと思い、いろいろ試した結果、ベンザAの空き瓶がぼくの指にはいちばんぴったりだった。
 その後、ジェームス・カーやダン・ペンの「ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート」も聴いた。あらためて歌詞を見て驚いた。通りの向こうの暗闇で人目を忍んで会う二人、不倫カップルの歌であったとは! ライ・クーダーの演奏は七十二年の『流れ者の物語』に入っている。このアルバムと、つぎの『パラダイス・アンド・ランチ』、さらに『チキン・スキン・ミュージック』あたりが、個人的にはいちばん愛着がある。
  (ライ・クーダー『流れ者の物語』)

23)秋にはJTのアルバムを一枚ずつ聴いてみる

 最初に買ったジェイムス・テイラーのアルバムが、この『ワン・マン・ドッグ』だった。中学三年生の秋である。ビートルズが設立したアップル・レコードからデビューするものの、セールス的には振るわず、新たにワーナー・ブラザーズと契約を交わして再デビュー。これはワーナーからの三作目にあたる。
 当時、JT氏に冠されていたキャッチフレーズは、「銀色の声」というものだった。そう言われてみれば、たしかに……きらびやかな金色の声ではないし、シャウトもほとんどしない。しっとりと落ち着いた、インテリ系の声である。そのあたりが血気盛んな中学生には物足りなかったのか、以後、しばらくは新作から遠ざかってしまう。
 再び聴きはじめたのは十年ほど前から。そのころ発表された『アワーグラス』というアルバムがとても良かった。二十五年間の空白を埋めるように、CDで少しずつ集めていった。どれも素晴らしい。曲、演奏、アレンジ。なにより聴き手の方が、「銀色の声」がしっくりくる年齢になったということかもしれない。
 当たり外れのない人なので、ベストを上げるのは難しい。『ゴリラ』や『イン・ポケット』もいいし、コロンビアに移籍してからの作品も充実している。できれば最初から一枚ずつ聴いてみることをお勧めする。美青年の趣があったデビュー時から、急速に髪の毛が後退していくジャケット写真に、人生を感じるだろう。とくに秋の深まる、これからの季節にはぴったり。なんたって「銀色の声」だからね。
  (ジェイムス・テイラー『ワン・マン・ドッグ』)

24)ジョージ・マーティンの、ちょっといい仕事

 「名前のない馬」の大ヒットで華々しいデビューを飾ったアメリカの、これは四枚目のアルバム(一九七四年発表)。本作から、ビートルズの育ての親であるジョージ・マーティンをプロデューサーに迎える。さわやかなアコースティック・サウンドが売り物だった三人組も、さすがに四作目ともなると、新しいことをやりたくなったのだろう。マーティンの流麗なオーケストレーションの効果もあって、これまでになく音楽の幅は広がった。
 前奏曲につづいて「魔法のロボット」がはじまるところは、いつ聴いてもわくわくする。いったいどんな冒険がはじまるんだろう、と思わせる素敵なオープニングである。三人のメンバーは、作風も声もずいぶん違うけれど、それらがうまく配列されて、統一感のあるアルバムに仕上がっている。ちょっとレトロな雰囲気のジャケット・デザインを含めてトータル・アルバムの趣があるのは、やはりビートルズを意識してのことなのだろう。いかにもポール・マッカートニーが作りそうなボードヴィル調の曲もある。
 ビートルズ解散後は、半ば隠居状態にあったジョージ・マーティンにとっても、これは現役復帰のきっかけとなる作品であった。とりわけこのバンドとの相性は良く、ベスト盤も含めて、さらに五枚ほどプロデュースを手がけている。翌一九七五年には、いよいよジェフ・ベックの『ブロウ・バイ・ブロウ』をプロデュースして、「ビートルズだけの人ではなかった」ことを強く印象づけたのだった。
 (アメリカ『ホリデイ』)