いま日本で小説を書くこと
現代の日本の社会では、いろいろなものがとても速いスピードで変化しています。たとえば都市では、古い建物が壊され、新しいマンションなどがつぎつぎに建設されています。そのため短いあいだに、街の景観がすっかり変わってしまうこともあります。ショッピングモールのような大型商業施設の増加によって、昔ながらの商店街が崩壊し、地域社会における消費空間の変化も急速に進んでいます。またパソコンや携帯電話をはじめとする新しい製品が登場して、人々の生活スタイルを、一昔前とすっかり変えてしまうということも起こっています。
かつては一世代のあいだに、これほど急速に社会や生活環境が変化することは考えられなかったでしょう。ほんの数十年のあいだに、何世代分にも匹敵するほどの変化が起こっている。それが現代の日本の社会であると言えます。このような社会に生きていることは、人々の心や精神にも深い影響を与えているはずです。たとえば安定した生活の土台が失われ、自分の老後とか子どもたちの将来といった、長期的な見通しが立たない。そのため生きることが、とても頼りないものに感じられる。あるいは自分は何者か、どういう場所の、どういった人々のあいだに帰属しているのかという、自己のアイデンティティにかかわることがはっきりしなくなっている。
このたび中国で出版されることになった『静けさを残して鳥たちは』の主人公たちも、自分の人生を確かなものと感じることができずにいます。自分の人生を偽物のように感じている。ひょっとして自分は、誰か別の人間の人生を生きているのではないか。主人公の一人の失踪をめぐり、彼にかかわりのあった者たちも、それぞれに自分の人生の意味を問い直しはじめます。
この作品を書き上げるのに三年かかりました。そのくらい時間をかけないと、日本という不安定で流動的な場所で、自分の仕事に確かな手ごたえを感じることはできないと思いました。長い時間をかけたために、小説も長くなりました。舞台は東京、ローマ、パリと変転します。物語は五人の主要な登場人物をめぐって展開します。この五人に、陰陽五行の五色から名前をつけました。白江、青柳、黒岩、赤沼という具合です。しかし「黄」という文字を使った名前は、日本にはありません。そこで苦肉の策として、黄だけは日本で暮す中国人という設定にしました。
去年でしたか一昨年でしたか、中国のGDP(国内総生産)が日本を抜いて世界第二位になりました。それまでは日本が世界第二位だったわけです。かつて日本人は、そのことを誇りに思っていました。いまはわりと冷やかにとらえている人が多いと思います。安い賃金で長時間働けば、当然、GDPも国民所得も上がる。それだけのことではないか、と考えている人が多い気がします。日本の経済成長は、そのようにして達成された面が大きかったからです。ドイツのGDPは日本の半分、フランスやイギリスにいたっては三分の一程度ですが、彼らより自分たちの方が豊かだと思っている日本人は、ほとんどいないでしょう。つまりGDPという指標自体に意味がないことを、現在の日本人は実感としてわかっているのだと思います。
第二次大戦後、日本は世界でも類を見ないほどの経済成長を遂げました。現在でも日本のGDPは、中国についで世界第三位です。しかし国民の幸福度を調べると、七十位と八十位のあいだくらいだと思います。自殺者の数も多いし、鬱病などの心の病気も増えている。日本は世界でも類を見ないほど、経済成長と幸福度が結びついていない国だと言えるかもしれません。
日本や中国のような国が経済成長を遂げるということは、要するに資本主義化するということです。資本主義化が急速に進むほど、短期間に大きな経済成長が達成されます。日本の場合は、これが非常にうまくいきました。うまくいき過ぎた、と言うべきかもしれません。資本主義化が急速に進み、GDPは世界の二位か三位になった。そして日本人は、いま自分たちがあまり幸せではないと感じている。
やりたいことをやる、生きたいように生きるという意味で、現代の日本人ほど一人一人が大きな自由を手にしている時代はかつてなかったでしょう。現在の平均的な日本人は、ルイ十四世よりも遥かに豊かな暮しを送っていると言った人がいました。お抱えの料理人はいなくても、近所のレストランで世界中の料理が食べられる。専用の馬車はなくても、格安航空券で世界中どこへでも行くことができる。アマゾンに注文すれば、欲しいものが数日で届く。その結果、誰もが退屈している。大きな不満もないかわりに、みんなが多かれ少なかれ、面白味のない人生だと感じている。
すると経済成長だけでは人間は幸せになれないのではないか、という疑問が出てきます。経済的に豊かになっても、それは直接人々の幸せには結びつかない。むしろ昔の貧しかったころの方が、満ち足りた生活をしていた、と多くの日本人が考えるようになっています。伝統的なものや共同体的なものとともに人とのつながりが失われ、先祖から受け継がれてきた豊かな自然は損なわれ、高層ビルと高速道路とショッピングモールとチェーン店しかない都市で、信じられるのはお金だけというような経済至上主義的な生き方を強いられている。はたして幸せと言えるのかどうか。誰もが自分のことだけを考え、自分だけの快適さや楽しみを追求することが、人間らしい健全な生き方といえるだろうか。
いま日本は、大きな岐路に立たされていると思います。福島の原発事故は、その大きな契機になっています。ここ数十年のあいだ、日本は地震の多発する狭い国土に、五十基以上もの原子力発電所が建設してきました。経済成長のために必要とされてきたわけですが、今度のような大きな事故が起こると、広大な土地が放射能に汚染され、人が半永久的に住めない状態になってしまう。その被害の甚大さに、いま日本人は愕然としています。自分たちはどこで間違ったのだろう。そのことを真剣に考えはじめているのだと思います。
どうして『世界の中心で、愛をさけぶ』がベストセラーになったと思うか、という質問を、これまでもしばしば受けてきました。しかし正直なところ、ぼくにもよくわからないのです。そこで別のベストセラーについてお話ししたいと思います。おそらく人類史上、最大のベストセラーと言ってもいいでしょう。その本とは、言うまでもなく『聖書』のことです。
『聖書』のなかで、イエス・キリストは「互いに愛し合いなさい」と言っています。彼が言っているのは、ほとんどこの一言に尽きています。そんな書物が、二千年にわたってベストセラーをつづけている。なぜでしょう? それは「愛し合いなさい」という『聖書』の言葉のなかに、最良の人間性、人間のなかのいちばんいいものがあるからだと思います。所有の観念を超えて、人間が生きることの可能性が示されているからだと思います。イエスが所有を戒めるのは、それが善いものを殺してしまうからです。善いものは所有できない。所有した途端に、善いものの善さは消滅してしまう。
所有は人間の健全な欲求を、失うことの恐れへと転化してしまいます。この恐れから、権利や義務といった法的な考え方が生まれてくる。それは人と人との関係を冷たく、排他的なものにしてしまう。人間が人間らしく生きるためには、人は所有を超えた生き方をめざさなければならない。その答えが愛だ、とイエスは言うのです。
こうしたイエスの言葉は、残念ながら、現在では人々の心に届きにくくなっています。たとえば現在の日本の社会で「愛」という言葉を使えば、ロマンティックなものか、エロティックなものか、家族的なものか……いずれにしても個人的な、狭い文脈でとらえられるはずです。人間がどうなっていけばいいかとか、どんなふうに生きるべきかといったヴィジョンのなかで、「愛」という言葉を使うことは、とても難しくなっているのです。
別のスタイル、別の言い方をしなければならないのだと思います。小説は一つの可能性です。その可能性を信じて、ぼくは小説を書いています。