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猫々通信⑩

中国再訪・旅日記(2012.8.29~9.3)

8月29日(水)晴れ
 午前中、福岡市民病院に入院中の父を見舞う。右足の動脈塞栓のために指と踵が壊死しており、とりあえず神経遮断によって様子を見ていたのだが、化膿してきたために大腿から下の切断手術が必要になった。その手術が今日の午後、中国へ出発の日と重なってしまった。母一人では心細いだろうが、中国側の予定を変更・キャンセルすることは困難なので、とりあえず行ってくることにする。
 午後、タクシーで福岡空港へ。14時40分の中国東方航空機で北京へ……と思っていたら、この便は青島経由だった。知らなかったのであせった。というのも、青島で一度出国審査を受けてから、あらためてセキュリティ・チェックなどを受けて、同じ飛行機の同じ座席に乗るのである。なんでこんな面倒くさいことをするのだろう。不慣れなぼくたちは、あやうく青島空港で迷子になるところだった。
 18時。北京空港着。青島出版社の楊さんと、今回『静けさを残して鳥たちを』を翻訳してくださった西安大学の候為先生が迎えに来てくれている。車で市内のホテルへ。北京空港は市内からかなり離れたところにあり、順調に走っても車で1時間くらいかかる。ホテルのレストランで夕食。
 ホテルは紫禁城(故宮)のすぐ近く。建物は古いが、ぼくたちの部屋はトイレが6畳、ベッドルームが12畳、応接室が20畳という感じ。さすが中国人はスケールがでかい。それにしても応接室のテレビの前に、麗々しく置いてある試供品、どう見てもアダルト・グッズじゃないか。なになに、コンドームは「安全套」とか「避孕套」というらしい。なるほど、勉強になるなあ。あと男用精油「激情持久」と女用精油「純情働火」(29元)なんてのもある。う~ん、どういうホテルなんだ?
 ホテルから日本へ国際電話をかける。父の手術は無事に終わったそうだ。86歳にもなって自分の足を切断されるというのは、どんな気分だろう。

8月30日(木)曇り
 朝食は抜いて、8時に車でホテルを出発。北京郊外の国際博覧会中心(センター)ってところへ。ここで第19回北京国際図書博覧会が開かれているのだ。だだっ広い、殺風景な倉庫みたいな建物が並んでいるのが会場らしい。セキュリティ・チェックがやたら厳しい。軍靴に迷彩服姿の男たちがやたらあちこちにいて威張っている。てっきり軍か公安かと思ったら、民間の警備会社だそうだ。驚かせやがって。ちょっと安心し、態度が急にでかくなる。
 インターネット・テレビによるインタビューを1時間くらい受ける。
 市内に戻ってラーメンで昼食。ここは日本の某ラーメーン・チェーンの店。けっこう流行っている。あとは吉野家なんかも、あちこちで見かけた。タイなどもそうだが、日本の外食産業がたくさん進出してきている。日本は少子化で人口減少だが、中国では14億の胃袋が待ち構えているのだから当然か。
 ホテルに戻って一休み。14時半から北京図書ビルの会議室で、青島出版社主催によるぼくの作品の検討会。コメンテーターは、ぼくの小説を数多く翻訳をしてくれている林少華先生、候為先生の他に、中国社会科学院の董丙月、魏大海、李長声の各先生、それに北京大学の張先生。まず、ぼくが15分くらいのスピーチをしたあと、各先生方がぼくの作品について発表してくれる。同時通訳がいないので、先生方がどんな話をしているのか、詳しい内容はわからないが、たぶん褒めてくれているのだろう。きっとそうに違いない。董先生は、夏目漱石の作品との共通性について喋ってくれているようだ。光栄である。李先生は、『どこへ向かって死ぬか』を評価してくれ、こういう小説以外の作品も翻訳されるべきであるとプッシュしてくれている。ありがたい。
 それにしても、ぼくの作品の検討会(研究会)が、このような高名な日本文学研究の先生方によって北京で開かれるというのは、とてもうれしいけれど、「本当に、ぼくでいいんですか?」と確認したい気分しきり。彼らはどこか、何か誤解しているのではないだろうか。こんなことがあっていいものだろうか。いいのだ。いいことにしよう。でも、恐縮してしまうなあ。
 18時より、上海料理のお店で青島出版社主催による晩餐会。青島出版社はぼくの小説を8冊も翻訳出版してくれている奇特な出版社だ。儲かっているのかどうか知らない。2年前に国際交流基金の派遣で中国へ行ったときにも青島へ招待してくれ、孟社長をはじめ、担当の楊さんたちとの面識ができた。そして今回は、『静けさを残して鳥たちは』の出版のあわせて、作品の検討会を開いてくれた上に、家内同伴でぼくを招待してくれたのである。出版社の鑑のようではないか。
 53度の白酒がやたら美味い。諸先生方と文学の話で盛り上がりながら、乾杯を重ねる。董先生がグラスを持ってやって来て、いかにも秘密を打ち明けるように、「片山先生の作品は、村上春樹の作品よりも深い、ストーリー性はともかく、深さでは先生の作品の方が上である、というのがわれわれの一致した見解です」と言ってくれる。ぼくは咄嗟に、「当たり前田のクラッカー」と返そうかと思ったが、さり気なく「謝謝」と答えておいた。中国に来て、大人になった気がする。

8月31日(金)曇り
 9時にホテルを出て、楊さんがぼくと家内を万里長城へ案内してくれる。候先生も同行。車で1時間半くらい。ここは各国の首脳などがかならず訪れるところらしく、貴賓用のレセプション施設がある。しかしどんな貴賓も長城は自分の足で登るしかない。階段の他にスロープあり、これがかなりきつい。3人とも昨夜、白酒を飲み過ぎてちょっと疲れ気味。ホテルで休んでいた家内がいちばん元気だ。
 適当なところで切り上げて、帰りはケーブルカーで下山。中国には「自分の足で長城に登らぬは真の男にあらず」みたいな格言があるそうだ。今日のぼくたちは、半分だけ男であった。
 市内に戻ってジャージャー麺で昼食。楊さんは他にも、北京ダックや海鮮料理やビールや、いろんなものを注文してもてなしてくれる。そんなに入らんっちゅ~のに。
 それにしても北京、車の渋滞とスモッグがひどい。2年前に来たときよりも、一段とひどくなっている気がする。北京到着後、まともに太陽を見ていない。スモッグでかすんでいるのだ。まさに「太陽のない街」だ。そういえば徳永直は中国では有名だ。いわゆる「プロ作家」というやつだ。閑話休題。いま北京市では車の所有は抽選による許可制で、10倍くらいの倍率だそうだ。いかに当局が車に頭を悩ませているかがわかる。ハイブリッド・カーに補助金まで出す日本は馬鹿である。
 もう少し、北京の印象を書いておこう。人々の顔はみんな不機嫌そうだ。幸せそうな顔をしている人は、ほとんどいない。みんな何事かに腹を立て、疲れているように見える。そして車で、バイクで、自転車で、常にどこかへ向かって突進している。尖閣諸島問題など、考えている暇はないのだ。
 それにしても中国はどこへ行くのだろう。どこへ行こうとしているのだろう。TVでは消費だけが人生のすべてみたいなCMがじゃんじゃん流れている。宝飾、服、車、家具……そんなものが中国の人々の心を惹きつけている。ぼくは中国が社会主義の国だと思ったことはない。かつても社会主義の国ではなかったし、これからもそうだろう。いま中国は必死に資本主義化しようとしているように見える。しかし14億の人口を抱えた国が資本主義化すれば、地球は間違いなく破綻してしまう。資源は枯渇するし、環境汚染によって人間は住めなくなるだろう。中国一国のことを考えても、是が非でも資本主義にかわるシステムを作り出さなければならないのだ。資本主義を超えることができなければ、人類に未来はない。それほど大きな問題だと、ぼくは思っている。
 資本主義に替わるシステムとは何か? 社会主義だろうか。そうかもしれない。しかし「革命」というかたちで国ごと社会主義化することはありえないだろう。社会主義化するとすれば、社会主義的なメンタリティをもつ人々がネットワーク化し、国や民族を超えて様々なアクションを起こすことによって、地球全体がそのような方向へ進むしかないと思う。ところで贈与や自然保護などの社会主義的な発想は、豊かな国の人々にとっては比較的容易だが、貧しい国の人々は、何よりもまず資本主義化して豊かになることを望んでいる。しかも世界の圧倒的に多くの人々は貧しい。彼らが豊かになるまで、地球は持ちこたえることができない。そのことがいちばんの問題だ。ぼくは日々、そういったことを考えているが、いまだに光明が見えない。考え過ぎると心が枯渇してしまうので、あまり考えないことにしている。
 街のあちこちで「北京精神」なるスローガンを見かける。愛国、創新、包容、厚徳……空疎な言葉が幅を利かせているのは、日本だけではないらしい。

9月1日(土)曇り
 午前中、楊さんの案内で紫禁城を見学。土曜日ということもあって、大勢の人が詰めかけている。天安門の方から景山公園の方へ向いて歩き、途中でおみやげを買う。
 昼は市内の北京ダック専門店へ。たしかに、ここの北京ダックは美味い。でも楊さん、ぼくたち昼はサンドイッチかなんかでいいんですけど……。
 14時半、高速鉄道で青島へ。途中、あちこちで建設が進む超高層マンション群を目にする。ぼくにはカタストロフを予感させる恐ろしい光景に見える。まさに人類滅亡の日が近いことを確信させる、黙示録的な景色だ。
 20時、青島着。迎えの車で市内のホテルへ。

9月2日(日)曇り・晴れ
 35階にあるビュッフェで朝食。眼下に青島湾が遠望できる。ここは5つ星ホテルらしい。そのわりには洗面台のパイプから水が噴出したり、トイレの水が流れなかったりして、朝っぱらから旅行英会話の本を開いてフロントに電話をしなければならなかったけどね。諒なり。
 午前中、家内と近くの海岸を散歩。行けども、行けども砂浜。沢山の人が水遊びをしている。いい加減にして引き返してくる。3時間ほど歩いてくたびれる。
 午後は楊さんが市内観光へ連れて行ってくれる。2年前にも行ったところなので、懐かしかった。青島はヨーロッパ風の建物が多く残る美しい街だ。とくに西に広がる旧市街は美しい。軍事上の要所でもあることから、日清戦争後の三国干渉に乗じて、まずドイツがここを租借地とする。さらに第一次世界大戦後は「戦勝国」になった日本がドイツからぶん取る。それにたいして五四運動が起こる……といった過去の歴史があるわけで、大使館の車にいたずらされたくらいで大騒ぎしちゃあいかんよ。
 18時より、孟社長主催による歓迎会。2年前と同じ店。そして2年前と同じように、オーストラリア産のワインでもてなしてくれる。はじめて青島を訪れたとき、『世界の中心で、愛をさけぶ』にオーストラリアが出てくるということで、孟社長が特別に用意してくれていたものだ。ぼくはすっかり感激し、また美味しかったので、たくさん飲んだらしい。「あのときあなたは、たくさん飲んでいましたね」と言われて、ちょっと恥ずかしかった。しかし性懲りもなく、今夜もたくさん飲んだ。「中日友好はおれが引き受ける」という気合いである。
 中国の人たちは、まだ自己意識と国家意識が完全に分離できていないところがある。だから強い主張をするときなどは、どうしてもナショナリズムが前面に出てくることも多い。しかし打ち解けて酒を飲むのに、これほど気持ちが良く、楽しい人々もいないのではないかと思う。もちろんビジネスも入っている。しかしビジネスをビジネスと感じさせない、洗練された社交術は、とても日本人などが敵うものではない。ぼくはすっかりいい気分でもてなされて、「よ~し、この人のためにいい仕事をするぞ」なんて思うのだ。

9月3日(火)曇り・雨
 午前中、楊さんに道教発祥の地といわれる労山へ案内してもらう。毎日、観光ばかりしていて申し訳ない。都知事のせいである。じつは北京と青島で予定されていたサイン会が、当局からの申し入れによって中止になったのだ。ぼくはサイン会のときのアクシデントは自己責任だと思っているから、できればやってくださいと伝えておいたのだが、やはり上の方の許可が出なかったらしい。残念である。でもまあ、おかげで観光。これまた諒なり。
 昼はホテルのビュッフェで昼食。楊さんの他に、青島出版の刘さんと、さらにぼくのファンという若い女性も同席。何者かよくわからないけれど、美しい人であった。
 部屋で一休みし、夕方からは青島出版社を訪ねる。今年移ったばかりの新しい社屋だ。孟社長にお目にかかり、社長室に案内される。20階くらいの広いフロアで、市内が一望にできる。エアーズロックへ行ったときに撮ったという写真が、大きなパネルにして飾ってある。来客用のでかいスケッチブックに署名をたのまれる。おお、さすがに墨と筆だ。何か一言? こんなこともあろうかと、ぼくは中国に来る前に『論語』などをひもといて、もっともらしい字句を考えていたのだ。でもいざとなると、やっぱり照れ臭くて、結局「謝謝」と書いた。馬鹿と思われたかもしれない。いいのだ。孔子も「愚は及びがたし」と言っている。関係ないか。
 下のブック・カフェで自著に50冊ほどサイン。
 18時より、今度は青島出版の高さん主催による送別会。おいおい、毎日やってるじゃないか。彼らの熱烈歓迎は半端じゃない。林先生をはじめ、出版社の人たちが10人ほど集まってくれる。家内はほとんどギブアップ寸前だ。ぼくの方はネバー・ギブアップ、元気に青島の海鮮料理を食べ、青島ビールをどんどん飲む。ホスト役の高さんは英語がちょっとできる。ぼくもインチキな英語で友好を応酬する。この人たちと友人であることを、しみじみ幸せに思う。再見。