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猫々通信⑬

癌治療について

 死にたいする感受性は、人によってかなり違う。病的に恐れる人もいれば、それほどでない人もいる。医療従事者だから、うまく対処できるというものでもないだろう。特権的なものは何もないと考えるべきではないだろうか。医者であろうと聖職者であろうと、怖いものは怖いし、苦しみや絶望を免れるわけでもないのだから。
 そもそも医学が、人間を根本的に救うことはありえない。医学や生物学が扱うのは生命現象である。したがって死は生命活動の停止であり、生命システムの破壊として説明される。その先には何もない。すなわち終焉であり、あらゆる関係の断絶であり、完全なる虚無である。いくら考えても、それ以上のものは出てこない。こうした医学や生物学が定義する死にたいして、私たちの多くは恐ろしいとか、悲しいとか、寂しいといった感情を抱くのだと思う。
 いくら医学が進歩しようとも、人間が死から解放されること、死から治癒することはありえない。つまり根底にある事実は、一ミリたりとも動いていないわけだ。人間は死すべきものである。なぜ、そうなのか。どうして死はあるのか。人によって生命の時間がまちまちであること、長寿であったり短命であったりすることを、いかに受け入れればいいのか。さらに言えば、医学が進歩して延命が可能になり、生命として地上にいられる時間が延びたとして、そもそも私たちはなんのために生きているのか。
 以上のようなことがすべて諒解されないかぎり、死が本来的に生にたいする脅威としてある事実は、わずかながらも変容することはないだろう。私たちが死に向かいながら、自らを救うことができないという状況は、何も変わらないのだ。

 たとえば現在、癌のスタンダードな治療法とされている手術、抗癌剤、放射線は、いずれも見方を変えれば、身体に加えられる熾烈な暴力である。生きている人間の腹を切り開き、臓器の一部を切り取る。こうした血なまぐさい暴力が、一切の刑事罰に問われないのはなぜなのか。それどころか私たちは、医者の言いなりになって、医学的な暴力の前に自らの大切な身体を差し出す。さらに切り刻まれた肉体をベッドに横たえ、自分を切り刻んだ者にたいして、涙を流さんばかりに感謝したりもする。おかしくないだろうか? おかしいのは、こんなことを考える私だろうか。
 それぞれの時代に、同時代の者たちを閉じ込める思考や認識の枠組みが存在する。その枠組みのなかで、私たちが受け入れている真理が形作られる。さらに真理によって正当化される権力、すなわち法や権利や規則体系や実践の仕組みが生まれる。これがミシェル・フーコーの言う「装置」、私たちを取り囲むようにして作動している、知と権力と真理の装置である。こうした装置のなかに、医療行為も組み込まれている。ゆえに、いかに残酷な暴力行為も罪に問われることはない。それどころか由緒正しい治療行為として、報酬の対象にさえなる。
 癌患者になるということは、まさに知と権力と真理の装置にとらわれることだ。医者も同じ装置にとらわれている。より正確に言うなら、医者はこの装置によって生み出され、患者とともに装置を支え、維持していくことに奉仕する。しかし完璧な装置というものはありえない。どんな装置も歴史的であり、時代とともに否定され、修正されながら現在に至っている。そして現在だけが特別であると考える、いかなる理由もない。
 私たちが受け入れている真理も、確実に誤謬の可能性を孕んでいる。人間の歴史を振り返ったとき、過去はさながら死せる真理の墓場といった様相を呈している。いま医学的に正しいと考えられていることが、いずれは賞味期限の過ぎた真理となる確率はきわめて高い。もちろん癌治療も例外ではない。現在、癌にたいして標準的に行われている治療は、百年後には間違いなく、一般の人たちを驚かせ、少なからず戦慄させるものになっているだろう。そのことに私は確信をもっている。
 確信をもっているからといって、現在という水槽の外に出られるわけではない。それが知と権力と真理の装置の手ごわいところだ。私は個人的には、医者にかからない、検診は受けない、病院に近づかないといった防衛策を講じている。それこそ自己責任の問題だから、他人に勧めるつもりはないけれど、医療にたいしては一人一人が自分の判断で、好きなようにすることが基本だと思う。