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猫々通信③

 現在、ぼくたちの最大の課題は、脱資本主義ということである。資本主義にかわるシステムを、いかに構想するか。それが文学、思想、芸術、すべての創造的な仕事にたずさわる人たちにとってのテーマだ。このテーマをかすっていないものは、どんなジャンルのものであれ、現代の表現たりえない、とぼくは思っている。
 マルクスが分析したように、資本主義は絶えず成長しつづけなければならないシステムである。成長が止まれば、システムそのものが機能しなくなってしまう。たとえば少子高齢化によって市場が縮小していく日本では、企業は海外へ出て行かなければ生き残れない。それは会社の経営戦略というよりは、資本主義のもとで活動している企業の宿命なのである。成長をつづけなければならない資本主義は、持続的な拡大再生産と、それに応じた大量消費を要求する。こうしたシステムが、地球環境に甚大な影響をもたらしつつあることは言うまでもない。ぼくたちは早急に資本主義を脱しつつ、これにかわるシステムを創り出していかなければならない。
 そんなわけで近年は、柄谷行人や中沢新一の仕事を、共感をもって追いかけてきた。柄谷は協同組合(アソシエーショニズム)のようなところから、資本主義にかわるオプションを創り出そうとしている。中沢は仏教的中庸による思想の組み換えから、脱資本主義を構想しているようだ。柄谷のNAM運動や中沢の「太陽と緑」が、これからどうなっていくかわからないけれど、ぼくなりに彼らの試みを応援したいし、彼らが作り出そうとしている流れに加担していきたいと思っている。
 中沢は新著(『日本の大転換』)のなかで、原子力発電からの脱却を目指すことが、資本主義にかわる新しいシステムを構想することにつながると言っている。なるほど。面白い! かなり楽観的な見通しに思える部分もあるし、全面的に賛成しかねるところもあるけれど、ぼくもよく考えてみたい。とにかく、いまはいろんな分野の、いろんな人たちがイメージやアイデアを出すべきだ。間違っていてもいい。誰にも答えはわからないのだから。脱資本主義に向けての、世界的な潮流を作り出していくことが大切だと思う。
 ぼくは一応、小説を書いている者なので、文学を軸として資本主義後の未来を構想していくことになる。いま、ぼくが考えていることを、ちょっと書いておきたい。
 フランス人権宣言の第一条は、「人は生まれながらにして自由にしてかつ平等な権利を有する」というものだ。近代以降、ヨーロッパならびに、それに追従する世界は、「自由」と「平等」という二つの原理でやってきた。そしてこの二つの原理こそ、資本主義を駆動させているものでもある。
 だが、しかし、それだけでは足りない。足りないことは、いまやはっきりしている。自由と平等だけでやろうとすると、人間は悪しきものになってしまう。なぜなら自由と平等のもとでは、一人一人が、拘束性の強い「自己」にとらわれてしまうからだ。この自己を超えることも、自己の外へ出ることも、自己と自己とが相互に浸透し合うこともできない。個々の「自己」であるかぎり、ぼくたちは断絶した個として、過酷な競争状態を生きるしかない。これこそが現代の悲劇、悲惨と不幸の根源にあるものだと思う。
 自由と平等を否定する必要はない。あと一つ、新しいファクターを付け加えてやればいいのだ。第三のファクター「X」と言うべきものを。自由と平等、それに第三のファクターX、これらをiPS細胞の「中山ファクター」に倣って、「片山ファクター」と呼んでおきたい。これによって、いわば幹細胞の状態にまで分化した「自己」を、多能性の状態へと再プログラミングしてやる、という方向で脱資本主義の構想を描いてみたい。
 ところで、第三のファクターXとは何か? わからない。たぶん「愛」とか「神」とか、それに類する言葉だろうとは見当がつくけれど、かといって愛や神ではだめなのだ。もっと別の言葉を発明しなければならない。しかし誰も、その言葉を手にしていない。それを何と呼べばいいのか、いまのところ誰にもわからない。わからないから、ぼくは仮に、これを「文学」と呼んでみる。
 もちろん、ただ言葉を見つければいいというものではない。それは偶然にやって来るわけではないのだから。言葉がやって来るためには、イメージや理念が熟していなければならない。自由や平等という言葉だって、そんなふうにしてやって来たはずなのだ。ぼくは小説を書くことを通して、第三のファクター「X」を追いかけている。いまはまだ、ぼんやりとしたイメージしかつかめないけれど。それでも自分がどこへ向かっているか、何を目指しているのかはわかっている。ぼく一人だけでなく、多くの者たちが同じ方向を目指し、同じものを追い求めれば、日本語で、英語で、フランス語で、ドイツ語で、スペイン語で、ロシア語で、中国語で……いつの日か、言葉はやって来るだろう。
 そのとき人間は初期化され、リセットされるはずだ。文明や宗教や民族や国家に分化してしまう前の状態に。ぼくたち一人一人が、こんなにも遠く離れてしまう前の状態に。自然や他者から、これほど傷ましく切り離されてしまう前の状態に。そんなふうにして、資本主義の先にある世界を構想できないだろうか、とぼくは考えている。